同日記者会見した相川哲郎社長は、米国での生産撤退について「工場を維持するだけの生産規模ではなく、経済合理性に適うものではないと判断した」と説明した。イリノイ州工場ではピークの2000年に年間22万台を生産していたが、14年には6万9000台まで減少。「選択と集中の観点から決定した」とも述べた。
三菱自動車は08年に豪州生産から撤退、12年にはオランダ生産子会社を現地企業に売却し、欧州生産からも撤退していた。その一方でタイに現地生産工場を建設し、インドネシアでも新工場建設を進めるなど東南アジアに積極的に投資し、選択と集中を進めている。
三菱自動車にとって、米国での生産撤退は2000年のリコール隠し発覚後、10年来の課題だった。中国市場に抜かれたとはいえ、北米市場は世界有数の自動車市場。「継続か撤退か」で役員の意見が分かれ、なかなか決着がつかなかった。しかし、世界販売が100万台規模とトヨタ自動車の10分の1ほどの同社にとって、先進国と新興国に車種を両面展開できる経営資源はない。その認識が、相川社長に撤退を決断させたといわれている。
今後は東南アジア3国を主要生産拠点に世界各地に輸出する「アジアモーター」として、生き残る体制を整えると見られているが、果たして同社はその戦略で生き残れるのか。
「益子再生」
三菱自動車が誕生したのは、三菱重工業の自動車事業部門が分離独立した1970年のこと。60年代半ばからの自動車資本自由化の流れを受け、70年に米クライスラーと資本提携すると共に、三菱重工から独立して三菱自動車と三菱自動車販売の2社が誕生した。三菱商事の強力な海外販売網を背景に、90年代前半まで順風満帆の成長を見せていた。だが、96年に米イリノイ州工場で起きたセクハラ事件をきっかけに凋落の道をたどり始める。
97年になると総会屋への利益供与が発覚、2000年には長年秘匿していたリコール隠しが発覚、同社の社会的信用が一気に失墜、業績が急降下した。それでも懲りずに続けていたリコール隠しが03年、04年と立て続けに再発覚し、この隠蔽体質はついに人身事故を引き起こして河添克彦社長(当時)が引責辞任に追い込まれ、河添社長ら元役員6人が逮捕される業務上過失致死傷事件に発展した。その結果、当時筆頭株主だったダイムラー・クライスラー(98年に独ダイムラーベンツとクライスラーが合併)から資本提携を打ち切られ、05年に経営危機に陥った。