だがIT活用について議論しているのは、便利さの追求のため過剰な人員を投入することは生産性の低下につながり、成長を阻害する可能性があるからであって、日本が便利で素晴らしい国なのかを論じているわけではない。
保育施設拡充の議論では、「安易に施設を増やすと、子どもの安全性が脅かされる」という話が出てきて、たいていの場合、保育施設の拡充は実行されない。
保育施設の拡充が日本社会にとって必須の課題であるならば、そして施設の拡充にリスクが存在するならば、拡充を前提にそのリスクを最小限にする方法について議論するのが正しいロジックだろう。だが、論点の違う話が出てきて、「保育施設を増やすにはどうすればよいか」→「安易に増やすと危険」→「保育施設は増やせない」→「保育施設が足りないと困る」→「保育施設を増やすにはどうすればよいか」という堂々巡りとなる。この結果、待機児童の数はいつまで経っても減らず、社会全体の生産性を低下させる状況が続いている。
ミクロ的な行き詰まりが、マクロをダメにしている
先日、台風15号の通過後、一斉にサラリーマンが駅に向かい、長蛇の列ができるという出来事があった。台風が来ているにもかかわらず、皆が出社を試みるという風潮については、以前から疑問視する声があり、今回についても「一斉出社する雰囲気を変えるべきだ」という意見はネット上でも多く見られた。
だが、こうした意見には必ずといってよいほど「鉄道など公共的な仕事に携わっている人もいるんだ」という反論が寄せられる。この話の論点は、「インフラの維持のためどうしても出社の必要がある人まで休むべきか」ということではない。こうした反論をしている人は、論点がズレていることについて、まったく気付いていない。
もしロジカルに議論が行われていたのなら、「公共事業に携わっている人の出社に影響を与えないよう、一般的な仕事に従事している人はなおさら出社を控えたほうがよい」という結論になっていたはずだ。
日本では会社の中でも政治の世界でも、似たような議論のパターンが繰り返されており、いつまで経っても、具体的な解決策には到達しない。情緒を優先させた思考回路が、ミクロ的な施策の障害となり、ひいては経済圏全体の硬直化をもたらしている。これが日本におけるマクロ的な経済政策の効果を半減させているのだ。
(文=加谷珪一/経済評論家)