1枚千円のとんかつがバカ売れ!平田牧場の闘魂経営…豚2頭から三元豚の王者への軌跡
そうした苦難を乗り切るために、仲間を集めて養豚の共同飼育組合をつくり、1964年に肉の直売所である平田牧場を設立。やがて嘉一氏は、豚の品評会で山形県産の倍近い価格で取引された鹿児島産バークシャーの存在を知り、異なる豚を交配して豚肉の質を高める品種改良を試みる。こうしてつくりだされたのが「平牧三元豚」(74年から開発)や「平牧金華豚」(88年から開発)だ。現在は国内で流通する同社の豚は20万頭超。2頭から始めた豚がここまで増えたのだ。
平田牧場では、豚の衛生管理にも気を使っている。同社の養豚施設は、母豚から子豚を生ませる「繁殖農場」と子豚を育てる「肥育農場」に分かれるが、豚を健康に育てるため、豚舎には限られた関係者しか出入りできない。出入りの際は豚舎内専用の作業着とゴム長靴姿で、手洗いや消毒を繰り返してから入場する。
また、床にはニオイを抑える微生物が増殖しやすい資材が敷いてある。鼻の敏感な豚は、ニオイもストレスになるからだという。ここまで徹底するのは、伝染病対策の意味もある。体長の低い豚は、地べたに近い空気を吸うので病気にかかりやすいのだ。同社の肥育農場を、衛生管理もあって自動車に乗ったまま見学したが、高くした天井から風が送られて通気性も保たれていた。
ダイエーと絶縁し、生協と二人三脚で「無添加のソーセージ」を追求
創業者の嘉一氏が骨太なのは、値下げ要求を繰り返した全盛期のダイエーとの取引を自ら断ったことだ。歴史の時計の針を戻して、その経緯を紹介してみたい。
当時のダイエーは「よい品をどんどん安く」をキャッチフレーズに掲げて価格破壊に突き進んだ。その姿勢が消費者の圧倒的な支持を集めた一方で、過度の安売りを嫌がる大手メーカーとは激しく対立した。最も有名なのが64年に松下電器(現パナソニック)とテレビの値引き販売割合をめぐって争い、松下側が商品を出荷停止にしたことだ。翌65年には花王石鹸(現花王)とも争い、花王も商品を出荷停止とした。その後の詳細な経緯は略すが、松下とは30年、花王とは10年にわたり取引停止が続いた。
平田牧場の場合、当初ダイエーは肉質を評価して「庄内豚」として積極的に扱っていた。だが、やがてその協調姿勢が影を潜め、豚肉の卸値を下げるよう再三値引き要求が続いた。