国内外の一流プロ野球選手から注文殺到!小さな用品メーカー、なぜ倒産から復活&急成長?
1935年に創業した同社は、当初はボールを製造していたが、業界内での評価を高めたのは防具だった。国内外の大手メーカー防具のOEM(相手先ブランドに合わせた商品供給)を積極的に担い、一時は国内のプロ野球捕手が使う防具の多くは同社製だったという。2000年代以降は、韓国プロ野球にも進出。防具・グローブメーカーとしての存在感を増していた。
82年に入社した永井氏は、経験を積むにつれて企画と製造の両方の職種を手がけ、対外的な交渉役も担ってきた。実は日本のプロ野球で、昔は単色だった捕手のプロテクターをカラー化する動きも同社が牽引した。きっかけは往年の名捕手で、当時ヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)監督の野村克也氏からの要望だった。
「ヤクルト球団から『投手が投げやすいよう、プロテクターの真ん中を黄色に変えてほしい』と言われたのです。それを契機に周辺を違う色で縁取りしたり、筋肉を思わせるデザインにするなどバリエーションを広げていきました」(同)
突然知らされた倒産と再生に向けた必死の活動
勤続30年を迎えた永井氏に、一大転機が訪れたのは12年2月20日のこと。社内で仕事をしていると突然会議室に呼ばれた。室内に入ると弁護士(後の管財人)がおり、「会社は今日で終わりです。明日からは社屋に入れません」と通知されたという。翌21日、ベルガードの破産手続き開始が決定し、倒産した。
そこからの永井氏の行動は迅速で、たったひとりでブランド再生に向けて動いていった。行動の原動力となったのは、顧客の存在と自らの問題意識だったという。
「春からの野球シーズンを控えて注文も多く受けており、お客様の期待を裏切ることはできませんでした。また、私自身も将来の独立を視野に入れて、早稲田大学の起業家セミナーに通い勉強もしていました。誰もやらないなら自分が再生しようと考えたのです」(同)
再生に向けた諸手続きには予想外に時間がかかり、商標を引き継ぎ、再スタートしたのは4カ月後の6月だった。このタイムラグでOEM先の大手メーカーとの取引も軒並み終了となったが、それが結果的に幸いし、利益率の高い自社ブランド強化につながったという。
孤軍奮闘する永井氏を支援したのが、ベルガードブランドのファンたちだ。アンパイアショップを運営する元プロ野球審判員、ソフトボールの審判用品を販売する会社の女性社長といった人が注文してくれるようになった。注文数が増えるに従い、旧会社のベテラン職人も手伝い、3人が入社した。ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)での情報発信も役立ったという。永井氏が発信してきたブログを再開したことで、支援の輪も広がり注文者も増加。現在はフェイスブックで情報発信をしている。
商品の評判を耳にして利用する国内外の著名選手も増えた。たとえば、米大リーガーではロビンソン・カノ選手(シアトル・マリナーズ)やブライス・ハーパー選手(ワシントン・ナショナルズ)が同社の打者用防具を愛用する。日本のプロ野球では、大手メーカーと契約する選手がそれ以外の用品を使うのは難しいが、昨年、打率3割・本塁打30本・30盗塁以上の「トリプルスリー」を達成した一流選手からも依頼が来ているという。