医者の息子が「ボンボン生活」捨て通販雑誌の一カメラマンに…なぜ五輪公式の世界一流に?
「最初に撮影したら、いい写真が撮れた。撮影に立ち会った広告代理店の担当者に見せると、『写真の構図はいいけど、少し手が低いです』と言われました。その後に何度もチャレンジしたが、どうしても手が低く写ってしまう。休憩をはさんでさらに挑み、深夜になるとその選手が、『青木さん、手をつかないで跳ぶからケガの可能性が高い。だから絶対に一発で決めてほしい』といって、受け身をとって広告用の演技をしてくれました。それでお望みのシーンを押さえることができて撮影は終了したのです」(同)
数日後、先方の企業から「この写真は自然なのですか」と聞かれた。「いや、自然ではありません」と答えたところ、採用されたのは最初の段階で撮影した写真だったという。
「クライアントあっての仕事ですから、そういうものです」と語る同氏は、別の広告写真では、飛び込みの選手が水中に入った写真を“演出”した。身体に重りとロープをつけて水中に沈んで撮影したが、水中でわかったのは、選手は入水してすぐ浮上を始めること。
「それでは身体が一直線に伸びず、きれいな絵になりません。そこで床に手を着くようにお願いしたところ、選手の身体全体が泡につつまれた写真が出来上がりました」(同)
他人がやっていない「場所」が、強みに
ここで、カメラマンになるまでと、なってからの青木氏の半生を紹介しよう。富山県魚津市で父親が開業医の家に生まれた同氏は、裕福な家庭に育ち、映画好きの少年として成長した。中学時代には映画を観た感想を専門誌に投稿して採用されたこともあったという。一方で、カメラマニアの父親は息子にもカメラを買い与え、親子で撮影もした。
そんな環境で育った青木少年が、高校卒業時にめざしたのは映画の仕事だった。まずは欧州映画の世界観を知るためにスイスの学校に留学し、哲学や宗教観を学ぶ。仕送りで生活し、雪国の富山県で培ったスキー技術を生かして、スキー場でのアルバイトも始めた。学校卒業後は、スイス国家公認のスキーインストラクターとして働いた。
インストラクターの報酬と親からの仕送りで不自由なく生活していた同氏だが、27歳の時に、突如として日本に帰国してプロカメラマンになることを決めた。「映画が斜陽産業となって映画界への就職が難しく、一生スキーのインストラクターで終える気もなかったから」だという。仕送りを断って退路を断ち、お金を稼がないと生活できない道を選ぶ。
「少年時代から写真を撮っていたので、プロの撮影した写真を見て『この程度の写真なら自分でも撮れる』と思ったのです。怖いもの知らずで始めた仕事は、最初は通販雑誌の商品撮影が多かったのですが、次第に依頼される仕事の幅も広がっていきました」(同)