医者の息子が「ボンボン生活」捨て通販雑誌の一カメラマンに…なぜ五輪公式の世界一流に?
青木氏の強みは、スイス時代の生活だった。現地で暮らして英語と日常生活に困らない程度のフランス語が話せたことと、欧州のスキー場に詳しいことが武器となった。やがて広告写真だけでなくスポーツ写真も撮るようになる。ここでも欧州各地を回った経験が生きた。多くの人が進む道を選ばず、自分なりの「場所」を見つけるのも持ち味のようだ。
その嗅覚が報道写真で生きたこともある。たとえば02年のFIFAワールドカップ(W杯)日韓大会のイングランド対スウェーデンの試合で撮影した、ソル・キャンベル選手(イングランド)のゴールをアシストしたデヴィッド・ベッカム選手のガッツポーズ写真は、世界中に配信された。
「イングランドのコーナーキック(CK)のチャンスを迎え、大半のカメラマンはスウェーデンのゴール裏に移動しました。でも私は何か勘が働いて、CKを蹴るベッカム選手の真後ろに移動しました。キャンベル選手のヘディングシュートが決まった直後、私の目の前で、ベッカム選手がサポーターに向かって派手なガッツポーズをしたのです」(同)
こうした経験もあり、いくつかの大学で講師も務める同氏がカメラマン志望の学生に話すのは、「いい撮影位置が取れなかったときは、発想の転換をしなさい」だという。
冬季五輪の挫折から22年、五輪の公式エージェントに
アスリートが「五輪の悔しさは五輪でしか晴らせない」と言うことがあるが、青木氏にも同様の経験がある。
初めて同氏が五輪を撮影した1976年のインスブルック冬季五輪では挫折を味わった。
「私はまだアマチュアでプレスカードも発行してもらえず、チケットを買って一般の観客席から選手を撮影しようと思いました。でもファインダーをのぞいたら、選手は豆粒ぐらいにしか見えない。300ミリの望遠レンズもない時代です。2~3日五輪会場に通って撮影するのをあきらめました。しばらくは悔しくて、五輪を見るのも嫌でした」(同)
その屈辱をバネにプロとなり、8年後の84年サラエボ冬季五輪で初めてプレスカードを手にした。そしてスポーツ撮影の実績を積み、98年の長野冬季五輪からアフロは公式写真を担うオフィシャルエージェントに選ばれた。写真にあふれる躍動感が評価されたという。