「電池メーカーさんは、電池を長持ちさせるための新素材をつくりたい。その材料構造をつくるお手伝いをさせていただいているんです」(奈良氏)
ほかにも、医薬品やセラミックスなどの分野において、素材の組み合わせは無限にある。奈良機械製作所のハイブリダイゼーションシステムは、各メーカーの新素材の開発を縁の下で支えているのだ。
国産初の粉砕機を開発
奈良機械製作所は1924年、現社長の父で初代社長の奈良自由造(じゆうぞう)が設立した奈良商店に始まる。
「父は貧しい農家の生まれで、兄弟も多く、教育をあまり受けられない環境で育ちました。志願して海軍に入ったものの肺炎を患い、以来、機械工具商の御用聞きをしていたんです」(同)
自由造の運命を変えたのは、営業先の、ある農薬会社の上役だった。その上役は、自由造の誠実さや仕事ぶりを高く評価し、「奈良君、君は何事かを成し遂げる面構えをしている。私が指導するから、粉砕機をつくってみないか」と、持ち掛けたのだ。
ときは大正、第一次世界大戦の直後である。国内では、水車を使い、石臼を回して小麦粉をつくる時代だった。国産の粉砕機と呼べるものはなく、すべてドイツ製など輸入機械で、希少かつ高価だった。
自由造が御用聞きに訪れていた農薬会社でも、輸入した粉砕機を使用していた。しかし、上役は、今後の日本の発展のためには化学工業の発達が必須であり、それには国産粉砕機が必要だと考えていた。
声をかけられた自由造は、感激した。その上役の指導のもと、丁稚奉公をしながら洋書を読みあさり、粉砕機の開発に取り組んだ。熱中するあまり、次第に丁稚奉公の暇もなくなった。結婚し、経済的に苦しい生活を強いられながらも、研究開発を継続する。そして25年に、ついに、高速度衝撃式粉砕機の製作に成功した。自由造が30歳ごろのことである。
「ハンマーの先のようなものを、機械式で高速回転させていろいろなものを砕くという初歩的なタイプの粉砕機です。しかし、間違いなく国産の粉砕機を開発した。父は、衝撃式粉砕機の原理原則を、自らビール瓶を割って試しながら、身につけたのでしょうね」(同)
30年、自由造は、奈良商店を奈良機械製作所と改称し、品川区鮫洲に工場を新設する。
「当時は、創立記念日には、粉砕機一号機をお神輿の上に乗せ、みんなで担いで町内を練り歩いたものです。ご馳走を用意して近所の皆さんにふるまい、仮装行列などをして盛り上がりました」(同)
自由造は、技術者たちとともに粉体処理の近代化に邁進した。戦中戦後の貧しい時代には、粉砕機は小麦粉をはじめとする食品の用途が多かった。
「農作物を抱えた農家の方がやってきて、『この野菜と引き換えに機械を一台売ってくれ』といわれたこともありました」(同)
今や製造業には欠かせない基本技術
第二次世界大戦後の復興とともに、日本は急速な経済発展期を迎える。粉体加工は、次第に工業製品、すなわち化学系の用途が伸び始めた。農薬、セラミックス、合成樹脂、医薬、ナイロンをはじめとする合成繊維などの市場である。
奈良機械製作所は、産業構造の変化とともに顧客を柔軟に変化させ、仕事の幅を広げていった。技術的にも、粉砕に加え、乾燥、攪拌、コーティングなど、顧客ニーズに合わせるかたちで、粉体技術全般を手掛けていった。
例えば、プラスチックの製造過程で必要とされる乾燥機は、50年代から60年代、大型プラントの建設が増加した時代に、高い汎用性で普及した。また、伝導伝熱型溝形攪拌乾燥機「パドルドライヤー」は、楔形の伝熱翼(パドル羽)を回転させて乾燥させる機械で、合成樹脂、汚泥、食品、化成品など、多様な業種に支持され続けている。
「粉体技術は、成熟した汎用技術のひとつです。しかし、100年前と変わらない技術がいまだに使われる一方で、ミクロン単位の粉に異なる物質をコーティングするなど、最新の技術もあるんです。今や、粉体加工はナノレベルですからね」(同)
あらゆる技術が高度化、複雑化するなかで、粉体加工は、今や製造業には欠かせない基本技術といえる。
76年、自由造の他界後、31歳で2代目社長に就任したのが、現社長の奈良氏だ。以来41年間にわたって奈良機械製作所を率いている。86年に移転した現在の城南島の本社の一角には、祠が設けられている。祀られているのは、自由造がつくった国産初の粉砕機である。
全組織はプロジェクトチーム型
奈良機械製作所の組織運営は、独特だ。縦割り横割りといった定型ではなく、全組織においてプロジェクトチーム型を採用している。
「一度決めたら、固定してしまうような組織の名称はつけたくない。3年も組織を固定すれば、外部からは入りづらい組織の壁ができてしまいます。それを避けるために、いつでも再編成ができるような雰囲気をつくっておきたいと考えているんです」(同)
例えば、マーケティング部隊は、石油化学分野、医薬分野、それらを除くケミカル分野の3つに大別されている。国内外の区別はなく、各部隊が世界中のクライアントに対応する。さらに、これらの部隊は、研究開発、技術、営業などが一体化したプロジェクトとなっていて、研究開発に携わる社員が、顧客と対話しながらニーズを技術に反映するといった具合だ。
「新しいアイデアが出てきたときには、それを実現するために社内から適切な人材をピックアップします。そのとき、どこに所属している人間であるかは不問です。限られた人的資源のなかで、効率よく経営を行うために行き着いたスタイルなんです」(同)
このスタイルの利点は、ほかにもある。頻繁なジョブローテーションは、組織にとって刺激になると同時に、社員間の関わり合いが増えて風通しがよくなる。組織のマンネリ化を回避し、社員のモチベーションを高める効果もあるのだ。
実際、この柔軟な組織運営は、社内に活気を生んでいると考えられる。取材に訪れた際、工場では青のりを粉砕する顧客の要望にこたえるための実験が行われていた。年齢のさまざまな社員が、作業服姿で機械の周囲に集まり、粉砕された青のりを手に取って確認する、熱意ある姿が見られた。
さらに工場内を歩くと、あちこちから大きな挨拶の声が届くなど、現場が元気だった。社長自ら、若手や外国人社員に次々と声をかけ、肩を叩き、笑顔で話しかける。社員も笑顔でそれに応じる。
「社員の顔と名前は、すべて頭に入っていますよ」(同)
170人という規模ならではのスタイルであり、雰囲気なのかもしれない。同社の粉体技術は、世界から引く手あまただ。海外売上高は全体の約半分を占め、今や海外市場なしに事業は成立しない。したがって、社員の英語教育に注力し、外国人社員や英語に習熟した社員による終業後の研修に加え、外部の英語教育を受ける際の費用負担などを行っている。
海外進出を本格化させたのは、80年代に韓国ソウルに拠点を設けて以降である。92年には、独・ケルンに事務所を開設。そのほか、インド、米国の各企業とライセンス契約を結び、協業している。
奈良機械製作所のオンリーワン技術は、長年の研究によって蓄積されたデータや技術なしにはあり得ない。一方で、今後も最先端技術を追求し、オンリーワン企業であり続けるために、つねに新技術の開発を怠らない。
「日本の粉体技術は、発祥の地ドイツに勝るレベルに達していますが、一方で、多様性なくして創造性は確保できません」(同)
そこで、人材の多様化を進める。現在、各国事務所を合わせると、韓国、ドイツをはじめ、6カ国以上の国籍の社員が勤務し、外国籍の社員が全体の約9%を占める。求人には、韓国をはじめ、海外から多くの申し込みがある。
「外国人社員と働いて感じるのは、日本人に比べて胸襟を開くのが早いことです。その意味でも、早く多民族企業になりたいですね。社員の半分が外国人になってもいい」(同)
歴史ある中小企業としては、じつに柔軟な発想といえる。奈良機械製作所の技術は、今後も、世界中の製造業の進化を、足元から人知れず支え続けるだろう。
(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)