「虚構」を容易に受け入れる日本人
虚構とは言い換えれば、その社会で広く浸透している思想のことである。経済が成長するためには私有財産が守られることが必要条件である。この「他人の私有財産を奪うことは悪である」という思想が共有されていないと経済は発展できない。1980年代に中国経済が発展できなかったことと、2000年代に中国経済が発展できるようになったことの間には政府を含めたこの思想転換が重要だった。
『サピエンス全史』の主張の面白い点は、この中国の例のように、思想とはその本質が虚構であるがゆえに、新しい思想に置き換わっても比較的柔軟に人類は新しい思想に適応できるようになるという点である。
人類史でいえば、近世までは王のいない国など成立できなかった。近代に入り市民革命が起きると、当初は国民の多くが「王のいない制度なんておかしなものが存在できるものか」と議会政治を批判的にとらえていたものだった。ところが数年たつと、そういった国民がすっかり民主主義という新しい思想に慣れてしまう。
日本人はこの新しい虚構に慣れる期間が世界の中でも短い民族のようで、第二次世界大戦のときなどは終戦を境にがらりとその社会信仰が変わってしまい、しかもそれに対して「それまでの考え方は間違っていた」という無批判な受け入れ方ができるという特殊能力を示したものだった。
だから日本経済では過去、何度も「虚構」が崩れては、それを無自覚に「あれは虚構だった」と我々は受け入れてきているのだ。
たとえば「銀行は潰れない」「お上は銀行を潰さない」という虚構は1997年の北海道拓殖銀行の破たんを機に、誰も信じなくなった。大企業は終身雇用と年功序列で成り立っているという虚構も同じく1990年代までは皆が信じていたが、2000年代以降は逆に誰も信じなくなった。
個人的に思い出深い虚構としては、1980年代までは新規公開株は絶対に公募割れをしないという虚構が存在していた。初値が公募価格を上回らないような条件の上場は幹事証券会社が認めないというのが、それまでの証券業界の常識だった。この虚構がはじめて破られたのはある超大手企業の子会社の上場の際である。幹事証券よりも大手企業の力が強く(あとから考えれば)誰が考えても割高な公募価格で新規上場を行った。
それでも証券会社は一生懸命、新規公開株を個人投資家に売り込もうとした。そんなことでまだ社会人になったばかりの私のところにも「1株、買いませんか?」とセールスの電話がかかってきた。公募割れは絶対にないという虚構を信じていた私は、条件が悪いことを知りながらその話に乗って大損した。