為替市場で円安が進んでいる。米国の金利上昇やインフレ懸念を背景とした動きであり、本来なら円高になってもおかしくない。一般的に円安は日本経済にとってプラスとされるが、今回の円安が日本円からの逃避の始まりだとすると、話は単純ではない。
米国の金利上昇でドル高という違和感
このところ外国為替市場で円安ドル高が進んでいる。9月まで1ドル=110円前後だったドル円相場は、あっという間に値を上げ、10月に入って1ドル=114円を突破した。米国で金利上昇が進んだことからドルが買われたとの解釈が一般的だが、「どうも釈然としない」という感想を持った人は多いだろう。
日本では、米国の金利が上昇すると米ドルでの運用が有利になるので、ドルが買われ円が売られるという説明をよく耳にする。だが名目金利の差で為替が動くというのはごく限られた条件下における現象でしかなく、一般論とまではいえない。むしろ過去の値動きを長期的に分析すれば、基本的に為替レートというのは購買力平価に沿って動くので、金利の上昇やそれに伴うインフレはむしろ通貨価値を毀損する(つまり米国の金利が上昇すればドル安になる)。ニクソンショック以降の現実のドル円相場についても、米国の金利上昇とインフレによるドルの下落でほとんどすべての説明が付く。
ある国の名目金利が上昇することで通貨高になるというのは、両国のファンダメンタルズがほぼ同じ状態で、何らかの理由で金利に差が付いた時などに発生しやすい。ただファンダメンタルがほぼ同じであれば、原理的に金利に大きな差が付くことはないので、ある程度時間が経過すると元の状態に戻る。米金利上昇で円安というのは、こうした動きを見越した市場の投機的な動きであり、長期的なトレンドを形成するものではないと考えたほうがよい。
セオリーに沿って考えた場合、米国で金利が上がりインフレ懸念が台頭している場合、ドルの価値は下がる可能性が高く、逆に景気が順調に拡大して物価と金利が上がるならドルは買われる。
現時点ではインフレが何をもたらすのか完全に予想できない状況にある。米バイデン政権はコロナ対策とAI(人工知能)や再生可能エネルギーなど次世代投資を兼ねた巨額財政出動を計画しており、米国経済の成長加速を期待する声がある。
米国経済が順調に成長すれば当然、金利も上昇し、物価も順当に上がるので、インフレは進むものの、経済に悪い影響は与えない。これは良いインフレであり、むしろドルの評価につながるだろう。米国での投資機会を求めて多くの資金が集まるのでドル高になっても何ら不思議はない。
コストプッシュ・インフレがスタグフレーションを誘発?
一方で、現在進行中のインフレは資源価格・資材価格の高騰によるコストプッシュ・インフレなので、経済に対して逆効果という見方もある。昨年10月時点で1バレル=40ドル前後だった原油価格は80ドルを突破しており、1年で約2倍になった。このほか金属類や半導体など、あらゆる資源や原材料が値上がりしており、各国企業はコスト対策に苦慮している。
資源価格が急騰しているのは、コロナ後の景気回復期待が高まり、企業の先行投資が増えたことが原因だが、背景にはもっと複雑な事情がある。
これまでの世界経済はグローバル化によるビジネス市場の統合が進み、各企業は全世界を網羅する広範囲なサプライチェーンを構築していた。だが、こうした巨大なサプライチェーンは新型コロナウイルスなど感染症に対して脆弱であり、コロナ危機発生から2年が経過した今でも物流の混乱が続いている。
各企業は巨大過ぎるサプライチェーンをリスク要因と見なし始めたことに加え、米中対立の激化で世界経済のブロック化が急激に進み始めた。今後は近隣エリアからの調達が増えるのは確実であり、こうした動きは全世界的な供給制限につながる。つまり、各国で資材の争奪戦が始まっており、この動きは今後の長期的なトレンドになる可能性が高まっているのだ。
もしこの動きが本物であれば、典型的なコストプッシュ・インフレになるため、景気にはむしろ逆効果となり、場合によってはスタグフレーション(不景気下のインフレ)に陥る可能性もある。もし市場が世界経済のブロック化を予想しているのであれば、世界中に拡散していたドル資金は米国に戻ってくるだろう。インフレによる通貨価値の毀損リスクがあっても、ポジションの縮小を優先するため、やはりドル高が進むというシナリオも考えられる。
今回のドル高(円安)がこうした動きを背景としたものだった場合、世界的な為替市場における円の役割は大きく後退せざるを得ない。ドル資金の一時的な受け皿という役割を失えば、円の需要は大きく減少するため、円安が進むことになる。
日本の経常収支の変化もこの動きを後押ししている。戦後の日本経済は輸出による貿易黒字が経常収支の源泉となっており、資本蓄積が進んだ後は、投資の運用益(所得収支)もこれに加わる形になった。特に貿易黒字の場合、外貨を受け取った日本企業はドルを日本円に変える必要があるため、恒常的にドル売り円買いの実需が存在した。ところが近年は輸出競争力の低下で貿易黒字が減少している。しかも、投資収益の場合、獲得した利益を日本には戻さず再投資するケースが多いため、円買いの需要が発生しないのだ。
日本はすでに1970年代の貧しさ
日本円は国際金融システムの中で相応の地位を保ってきたが、それは日本が世界第2位の経済大国だった時代が長く続き、しかも米国への輸出によって大量のドルを受け取るという特殊な地位がそうさせてきた面が大きい。世界経済のブロック化が進み、米国、欧州、中国という経済圏に集約された場合、日本は望むと望まざるとにかかわらず、アジア地域の周辺国にならざるを得ない。
そうなれば、従来、日本円が国際金融市場で持っていたプレゼンスは維持されなくなるだろう。
為替というのは、完全に市場メカニズムで動いておりメジャーな通貨であるほど、取引条件は有利になる。マイナーな通貨に転落した場合、売り買いの価格差(スプレッド)が大きくなってコストが増えることに加え、取引量も減るので、ちょっとした要因で為替レートが動いてしまう。
これまではドルが売られた場合、日本円には受け皿としての役割があったが、こうしたニーズがなくなれば、単純に日本経済の実状に合わせて円が売り買いされる。そうなると現時点での為替レートが今後も維持される保証はまったくない。
日本円の為替レートはしばらく安定的な状態が続いていた。だが為替レートが変化しなくても、海外の物価が上昇すれば、それは円安になったことと同じ効果をもたらす。日本経済は過去30年間でほとんど成長できず、物価や賃金も横ばいだったが、諸外国は同じ期間で経済規模を1.5倍から2倍に拡大させ、賃金や物価も上昇が続いてきた。
海外の物価が上がれば、為替が変わらなくても日本が輸入する商品の価格は値上がりする。製品価格に転嫁できないメーカーは、内容量を減らして価格を維持するという、いわゆるステルス値上げを実施してきたものの、それも限界に達しつつある。ここで日本の国力低下に伴う円安が本格化した場合、ただでさえ上昇していた輸入物価がさらに上がり、日本人の実質的な購買力が一気に低下してしまう。
諸外国との賃金差などから計算すると、現時点において日本はすでに1970年代の水準に逆戻りしており、もう一段の円安が進めば、さらに昔の貧しい時代に近づくことになる。
(文=加谷珪一/経済評論家)