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理学療法士の業務95%自動化と200兆円市場への挑戦…AIユニコーンが描く医療の未来

2025.06.19 2025.06.19 19:02 企業
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Hinge Healthのサービス「TrueMotion」(公式サイトより)

●この記事のポイント
・Hinge Healthはスマホだけでリハビリを受けることができるプラットフォームを確立。それによって現在の理学療法士の業務の95%を自動化できるともくろむ。
・このサービスが参入する米国の筋骨格系(MSK)ヘルスケア市場は200兆円にも上る。急成長を遂げる同社だが、競争も激化している。強固な収益基盤を築きつつも、競合との競争にも備えは怠らない。

目次

「私たちのビジョンは、テクノロジーの力で医療提供の仕組みを拡張・自動化し、医療の成果・体験・コストを根本から変革する、新たなヘルスケアシステムを構築することだ」

 米サンフランシスコに本拠を置くHinge Healthの共同創業者兼CEO、ダニエル・ペレス氏は上場時の目論見書でそう述べる。2021年1月に評価額が30億ドルを超えてユニコーンとなり、今年5月にニューヨーク証券取引所への上場を果たした企業だ。

 手掛けるのは、スマートフォン1つで手軽に誰でもリハビリを受けることができる「パーソナル理学療法士」プラットフォーム。個々人の症状や目標にあわせた運動療法をデジタル上で提供する。

 同社が狙うのは、いわゆる従来のヘルステック企業が狙う医療の効率化にとどまらず、「予防や治療そのもののデジタル化」である。従来は人の手に大きく依存していた理学療法(PT)の95%を自動化するほどの影響を持つと同社はいう。

 2024年通期の売上高は3.9億ドルに上り、すでに2025年度第1四半期には四半期としての黒字化を達成している。米国の成人の40%が患うといわれる筋骨格系(MSK)疾患を主戦場に収益化とスケールの双方を両立するHinge Healthの事業戦略について、上場時の目論見書を中心に紐解いていく。

創業者自身の「1年に及ぶリハビリ」から生まれた革新

 Hinge Healthの創業は、共同創業者であるダニエル・ペレス氏とガブリエル・メクレンブルグ氏自身がMSK(筋骨格系)疾患に苦しみ、従来のリハビリテーションに対して強い課題意識を抱いたことがきっかけである。

 ペレス氏は自転車事故で腕と脚を骨折し、メクレンブルグ氏は柔道で前十字靭帯を断裂。両者ともに12カ月に及ぶリハビリを経験した。その中で実際に通ってこなす必要があるプログラムの多さや、個々人の症状に合わせることの限界、質のばらつきなど様々な問題点を肌で感じたという。

 そこから生まれたのが、「テクノロジーを用いてケアそのものを自動化する」というアイデアだ。患者側はいつでもどこでも高品質でパーソナライズされたケアを受けることができ、同時に医療従事者の業務負担を軽減することで、人間にしかできないコミュニケーションや交流などに重きを置ける環境づくりを目指した。

 多くの場合、ヘルスケアにおける人間同士のやりとりは「受付や会計業務のスタッフとの間で生まれ、医療従事者との間ではない」と彼らは指摘する。「非直感的ではあるが」と添えた上で、デジタル技術を導入することで医療従事者が他の業務から開放されれば、よりHuman Touch(人の温もり)がある医療体験を実現できるという。

 2012年にMarblar Limitedとして同社を設立し、2014年にはHinge Healthとしての最初のプロジェクトが始動した。2カ月後には膝の痛みに特化した試作品を開発し、実際に患者に提供したところ、ものの数週間で「劇的に」痛みが改善する成果を得られた。

 そこから2016年に米国で最初の顧客向けにサービスの本格展開を開始。国民保険プランを提供する会社とのパートナーシップなど法人との提携を軸にサービスを拡大していく。2022年時点で法人顧客は1000社を突破し、利用メンバー数は現在累計100万人以上に上る。

スマホで完結。AIが実現する「パーソナル理学療法士」

 Hinge Healthが提供するのは、理学療法を個人のスマホアプリ上で完結させるプラットフォームだ。ユーザーは、整形外科医や理学療法士が監修した個々の症状や目標に合わせた運動療法に取り組むことができる。

 対象は予防から急性期・慢性期のケア、手術前後のサポートに至るまで多岐にわたり、首、肩、腰、膝など16の身体部位に対応する。

 ユーザーはまず10個の質問への回答を通じて、自分の症状や生活習慣、目標を登録。いくつかのエクササイズを記録することで、自分にあったリハビリ計画・運動内容が生成される。もちろん症状が変化すれば、プログラムも適切に修正される仕組みだ。

 Hinge Healthの強みは、AIを活用した独自技術群と独自のチームにある。具体的には、AIによるモーショントラッキング技術「TrueMotion」、FDA認可の疼痛緩和用ウェアラブルデバイス「Enso」、そしてAIによって業務がサポートされる理学療法士、医師、健康コーチからなる専門家チームである。

「TrueMotion」によりユーザーの動きをリアルタイムで分析

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・AIモーショントラッキング「TrueMotion」: 特別なセンサーは不要。スマホのカメラだけで身体の100以上のポイントを3Dで認識し、運動フォームの正確性をリアルタイムでフィードバックする。これにより利用者は自宅にいながら専門家の指導を受けているかのような体験を得られる。

・FDA認可の疼痛緩和デバイス「Enso」: 痛みが強く運動が困難な利用者には、FDAの認可を受けた独自のウェアラブルデバイス「Enso」を提供。電気刺激を神経に送ることで手術もせず薬物も使わずに痛みを和らげ、運動療法の継続をサポートする。

・AIサポート付きケアチーム:ユーザーのリハビリ行動を理学療法士、医師、ヘルスコーチからなる専門家チームが遠隔でモニタリングする。ケアチームは、利用メンバーの医療情報を要約してメッセージの下書きを自動生成してくれる「Care Team Assistant」という生成AIツールを活用。単純作業を効率化することで、より人間にしかできないコミュニケーションに時間を割くことができる。

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「Enso」は神経への電気刺激により痛みを緩和する

 同社のプラットフォームでは、100万人以上のユーザーによる累計7400万回以上のアクティビティセッションと3200万件以上の成果ログが記録されている。このデータセットの大きさこそがAIモデルを継続的に強化し、より精度の高いパーソナライゼーションを実現する「正のフィードバックループ」の源である。

 また「HingeConnect」という独自のデータ統合エンジンを開発しており、全米75万以上の医療提供者のEHR(電子健康記録)と連携し、メンバーの医療情報をリアルタイムで把握できる。これにより、例えば手術を検討しているような高リスクのメンバーを早期に特定し、より低コストで効果的な自社のプログラムへと誘導することが可能になる。競合の追随を許さない「Moat(堀)」として機能するというわけだ。

大手保険会社と提携する巧みな販売戦略

 Hinge Healthのもう一つの強みは、効率的なGTM(Go-to-Market)戦略にある。同社は優れたプロダクトをつくるだけではなく、「最も買いやすい」状態であることを重要視している。

 事実、法人顧客数はすでに2250社を超え、Fortune 100企業の49%、Fortune 500企業の42%をクライアントに持つ。その獲得戦略の要となったのが大手健康保険プランやPBM(薬剤給付管理者)との戦略的パートナーシップだ。2025年3月末時点で、米国の自己保険加入者数トップ5の健康保険プランすべて、市場シェアトップ3のPBMすべてを含む50以上のパートナーと提携している。

 これにより、Hinge Healthを導入したい企業は、医療サービスの提供に関連する煩雑な契約プロセスやセキュリティ審査を経ることなく、既存の健康保険プランの枠組みを通じて迅速にサービスを開始できる。導入期間がわずか数週間に短縮されることもあり、これが「最も買いやすい」という販売面での優位性を生んでいる。実際、2024年度の売上の79%が、これらのパートナー経由で生み出された。

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既存顧客からの売上拡大が続いている

 既存顧客からの売上がどれだけ成長したかを図る指標であるNet Dollar Retention(売上継続率)は117%と高水準にある。一度導入したクライアントが、より多くの従業員を参加させたり、新しいプログラムを追加したりすることで、既存顧客からの売上が雪だるま式に増えていく構造になっているというわけだ。

エンゲージメント課金が示す強気な収益基盤

 同社の収益モデルは、B2B2Cを基本とするサブスクリプションモデルだ。特徴はエンゲージメントベースの課金であること。契約した企業の従業員は無料でプラットフォームを利用でき、企業側は実際にプラットフォームを利用(エンゲージ)したメンバーの分だけ年間利用料を支払う。

 その上で、多くの場合はエンゲージメント率や臨床アウトカム、ROI(投資対効果)に基づいた成果保証までする。この保証による返金等は「僅少(immaterial)」あるといい、実際に成果をあげていることの証左ともいえそうだ。

 同社のプログラムの有用性は臨床的有効性が裏付けられており、特に1万人規模を対象とした研究では12週間後に平均で68%の疼痛改善、58%のうつ・不安軽減などが報告されたという。実際、Hinge Healthのメンバーは、利用しなかった対照群と比較して、MSK関連の医療費が1人あたり年間平均で2387ドル低く、雇用主目線では2.4倍のROI(投資対効果)を生みだした。

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売上高・クライアント社数ともに30%台の成長をしている

 優れたプロダクトや販売戦略を背景に業績は拡大傾向にある。2024年度の売上高は3.9億ドルと、前年度の2.9億ドルから33%増だった。2025年度の第1四半期は前年同期比50%増となり成長は加速している。

200兆円市場への挑戦と激化する競争環境

 Hinge Healthがターゲットとする筋骨格系(MSK)ヘルスケア市場は巨大だ。米国におけるMSK関連の年間医療費は推定6610億ドル(約100兆円)に上り、糖尿病やがんを上回る最大の医療費カテゴリーとなっている。生産性損失などの間接コストを含めると、その経済的負担は1.3兆ドル(約200兆円)に達するともされる。

 同社の現在の契約アカウント数は約2000万人で、これは米国のターゲット市場のわずか5%にすぎず、成長余地は大きい。中核のMSKケアに加え、女性の骨盤底筋ヘルスケアや高齢者向け転倒予防プログラムなど対応領域を拡大し、カナダや欧州への国際展開も進む。

 一方で、競争環境も激化している。上場時の目論見書では、Sword Health、Kaia Health、Omada Healthなどが競合として挙げられた。Omada Healthは2022年にユニコーン入りし直近で上場を果たした急成長企業であり、Sword HealthもまたIPOの噂が飛び交う。

 膨大なデータセットを基にしたAIモデルや強固なパートナー販売網など「Moat」(競合他社からの参入を防ぐ障壁)を築いてきたHinge Healthが今後どのように戦っていくのか。今後も業界の動向と合わせて注視したい。

(文=干場健太郎)

干場健太郎

干場健太郎

日本経済新聞やStrainerにて記者として国内外の企業・サービスに関する取材・記事執筆を経験。現在はヘルスケアSaaSの会社役員。