平均寿命と健康寿命、広がる差の正体…ロンジェビティ市場3千億円時代の健康格差

●この記事のポイント
平均寿命と健康寿命の差は日本で男性8.5年・女性11.6年(厚労省2025年データ)。世界のロンジェビティ市場は2035年に660億ドル規模へ拡大見込みだが、恩恵は富裕層に偏る懸念も。WEFレポートや慶應KGRI・IHME研究をもとに、「健康格差」拡大の実態と是正への道筋を考察する。
「人生100年時代」という言葉が定着して久しい。しかし、この数年で議論の重心は静かに移り変わっている。従来の高齢化論は、少子高齢化による社会保障費の膨張や労働力不足といった、国家財政レベルのマクロな課題が中心だった。ところが今、専門家や投資家の関心は「誰が健康なまま長く生きられるのか」という、より個人的でシビアな問いに向かい始めている。
厚生労働省が2025年7月に公表した令和6年簡易生命表によれば、日本人の平均寿命は男性81.09歳、女性87.13歳で、女性は40年連続で世界1位を維持した。一方、2022年時点の健康寿命(日常生活に制限なく暮らせる期間)は男性72.57歳、女性75.45歳にとどまり、平均寿命との差、すなわち「不健康な期間」は男性で約8.5年、女性で約11.6年に及ぶ。長生きそのものは実現しつつある一方で、その「質」――健康な期間をどれだけ確保できるかには、依然として大きな個人差が残されている。
さらに見過ごせないのが、この差が「地域間・階層間で拡大している」という指摘だ。慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)とワシントン大学保健指標評価研究所(IHME)が2025年3月に発表した共同研究(Lancet Public Health誌掲載)では、日本国内における30年間の健康動向を分析した結果、都道府県間の健康格差が縮小していないこと、そして認知症や肥満といったリスクが健康寿命の伸びを鈍化させていることが明らかになった。長寿は「みんなに平等に訪れる恩恵」ではなく、「誰がその恩恵を最大化できるか」という格差の物差しになりつつある。
このような状況下で急拡大しているのが、いわゆる「ロンジェビティ(長寿)産業」だ。予防医療、マルチオミクス解析、エピジェネティック年齢測定、パーソナライズド栄養、幹細胞バンキングなどを組み合わせ、「老化そのもの」を管理対象とするビジネスが世界規模で立ち上がっている。「長寿の民主化」を掲げる企業は多いが、少なくとも普及の初期段階においては、テクノロジーの恩恵が特定の層に偏るという懸念が拭えない。
●目次
- 「生物学的格差」のリアル…可処分所得が「生物学的年齢」を左右する時代へ
- 労働市場と経済への波及…「終わらない現役」がもたらす構造変化
- 世界の倫理的議論と政策の動向
- 技術の普及は「特権」で終わるのか、「インフラ」になるのか
「生物学的格差」のリアル…可処分所得が「生物学的年齢」を左右する時代へ
ロンジェビティ市場の規模感を見ると、この産業がすでに無視できない経済圏になっていることがわかる。市場調査各社の推計にはばらつきがあるものの、2025年時点でグローバルのロンジェビティ市場は270億〜320億ドル規模、2035年には660億〜670億ドル規模まで拡大するとの予測が複数の調査会社から示されている。UBS SuMi TRUSTウェルス・マネジメントは、AI・電力に続く「変革的イノベーションの投資機会」としてロンジェビティを位置づけ、2023年の5.3兆ドルから2030年には約8兆ドル規模(周辺産業を含む広義の市場)に成長すると分析する。国内でも世界経済フォーラム(WEF)は、日本の「ロンジェビティ・エコノミー」市場が2023年度の96兆円から2040年度には115兆円に拡大すると試算している。
問題は、この市場の恩恵に「誰が」「どのようにアクセスできるか」だ。米国では現在、専門のロンジェビティ・クリニックが800カ所以上運営されているとされ、年会費2万ドルを超える会員制プログラムも珍しくない。多角的な血液検査、全身MRIによる早期がんスクリーニング、遺伝子解析に基づく個別最適化された運動・栄養プログラムなどをワンストップで受けられるが、これらは基本的に自由診療であり、公的医療保険の枠外にある。一方、多くの人々は公的保険の枠内での標準治療、あるいは症状が出てからの事後治療に頼らざるを得ないのが実情だ。
ここで起きている変化の本質は、格差の「単位」が変わりつつあるという点にある。これまでの経済格差は、主に「保有する資産の量」で測られてきた。しかしロンジェビティ科学の進展により、格差はより直接的に「70代になっても30代並みの認知機能や身体機能を維持できるか」という、生物学的なスペックの差として表面化し始めている。資産格差が健康格差に転化し、健康格差がさらなる資産形成力の差を生む――そうした循環構造が指摘される段階に入っている。
「これまで健康は、ある程度まで生活習慣や運不運の産物とみなされてきました。しかし予防医療とバイオマーカー解析が高度化するにつれ、健康は“投資対象”になりつつあります。問題は、その投資機会に価格というアクセス制限がかかっている点です」(再生医療分野に詳しい医療アナリストの三好泰一氏)
労働市場と経済への波及…「終わらない現役」がもたらす構造変化
ヘルススパンの延伸は、労働市場のあり方にも影響を及ぼし始めている。WEFが2025年3月に発表した「ロンジェビティ・エコノミー・レポート」では、企業が定年後の貯蓄支援やリスキリング、介護支援、健康支援を統合した福利厚生プログラムを推進する必要性が提言されている。シンガポール政府が国家戦略として「キャリア・ロンジェビティ」の推進を掲げているように、健康で働き続けられる期間、すなわち「労働寿命」の延伸は、単なる個人の健康問題ではなく国家の産業政策の一部として位置づけられ始めている。
この文脈で注目すべきは、ヘルススパンを延ばせた層が得る「複利効果」だ。認知機能や体力を維持できる経営者や投資家は、60代・70代になっても第一線でビジネスや資産運用を継続し、知見と資産をさらに積み上げることができる。労働能力の維持がそのまま経済的優位性の維持につながる構造は、一部の層にとってはこれまで以上に有利に働く一方、世代交代のサイクルや若手層の登用機会にどのような影響を与えるかという社会学的な問いも浮上している。経営権やポジションの「生物学的な現役期間」が伸びることで、労働市場の流動性が変化する可能性は、今後の実証研究が待たれる論点である。
「経営層の若返りが遅れることへの懸念がある一方、経験豊富な人材が健康に長く現役でいられることは、人手不足に悩む産業にとってはむしろプラスに働く側面もあります。重要なのは、その機会をどの世代にも開いていくことです」(同)
世界の倫理的議論と政策の動向
海外に目を向けると、ロンジェビティ・テクノロジーの「公衆衛生化」を求める議論も進んでいる。WEFの高齢化社会に関する報告書(2025年3月)では、年金受給、投資、長期介護といった分野で「より公平で包摂性の高いシステム」を構築する必要性が強調された。国内でも2025年6月、京都府京丹後市で「第1回世界長寿サミット」が開催され、国内外の研究者が運動・食事・遺伝子など多角的な視点からロンジェビティを議論するなど、国家戦略としてこのテーマを扱う動きが本格化しつつある。
一方で、こうした議論には「健康の二極化を防ぐため、公的医療保険や企業の福利厚生としてどこまでをカバーすべきか」という制度設計上の難題が伴う。エピジェネティック検査や幹細胞バンキングのような先端サービスをすべて公的保険でカバーすることは財政的に非現実的である一方、初期スクリーニングや生活習慣介入といった「入り口」の部分だけでも公的支援の対象とすることで、格差の固定化を一定程度防げるのではないかという議論も出てきている。
技術の普及は「特権」で終わるのか、「インフラ」になるのか
長寿科学の進化は今後も止まらないだろう。論点は、それが一部の富裕層向けの「特権的サービス」にとどまるのか、それともかつての抗生物質やワクチンのように、時間とともにコストが下がり誰もが享受できる「社会インフラ」へと普及していくのか、という点にある。
イノベーションの普及理論(Diffusion of Innovation)の観点に立てば、初期段階で富裕層が高額なサービスに投資することが、技術開発や量産化を加速させ、結果として価格破壊とコモディティ化を招くという楽観的なシナリオも十分にあり得る。実際、遺伝子解析のコストはこの20年で劇的に下落し、かつて数百万円規模だった検査が数万円台で受けられるようになった前例もある。ウェアラブルデバイスによる健康モニタリングも、当初は一部の愛好家向けの高額商品だったが、今や幅広い層に普及している。
もっとも、この楽観シナリオが自動的に実現するわけではない点には注意が必要だ。企業や投資家、政策立案者に今求められているのは、技術開発への投資だけでなく、「いかにその恩恵を社会全体へ実装し、格差を是正する仕組みを設計するか」という視点だろう。ヘルススパン格差が、資産格差を固定化・増幅する新たな階層構造として定着するのか、それとも社会全体の底上げにつながるインフラとして着地するのか――その分岐点に、私たちは立っている。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=三好泰一/医療アナリスト)











