シニア活用の限界を破る「健康寿命延伸」投資…AI時代の定年延長とB2B福利厚生市場

●この記事のポイント
少子高齢化で70歳までの就業確保が努力義務化(実施率34.8%)する中、一部企業は従業員の『生物学的年齢』改善に投資する新概念『EHG』に着目。プレゼンティーズム対策やISO30414の人的資本開示とも連動する、シニアの生産性維持とB2B予防医療市場の最前線を解説する。
少子高齢化による人手不足を背景に、70歳までの就業機会確保が「努力義務」となって久しい。だが、単に雇用期間を延ばすだけでは、AIによる業務変化の速さについていけないシニア人材のパフォーマンス低下という新たな課題が残る。一部の企業では今、従業員の「生物学的年齢」に着目した予防投資——EHG(Employee Health & Longevity)という考え方が広がりつつある。その狙いと注意点を追った。
●目次
- 「人手不足×定年延長」が突きつける新たな人事の壁
- EHGという新しい福利厚生の概念
- なぜ今、企業が「従業員の健康寿命」に投資するのか
- リーガルと運用の注意点:プライバシーとYMYLリスクの回避
- シニア活用を「コスト」から「競争力」へ
「人手不足×定年延長」が突きつける新たな人事の壁
少子高齢化が進む日本では、企業が高齢人材の活用なしに労働力を確保することが難しくなっている。厚生労働省は2020年の高年齢者雇用安定法改正により、70歳までの就業機会確保を事業主の「努力義務」と定めた。同省が2025年12月に示した新たな基本方針では、2029年までに70歳までの就業確保措置の実施率を40%以上とする目標を掲げているが、2025年6月1日時点の実施率は34.8%にとどまる。60〜64歳の就業率は2024年実績で74.3%(目標79.0%)、65〜69歳は53.6%(目標57.0%)と、いずれも政府目標に届いていない。
制度としての「雇用の器」は着実に整備されつつある一方で、現場が直面する課題は別のところにある。従来のシニア再雇用は、役職や賃金水準の見直しにとどまるケースが多く、加齢に伴うパフォーマンスの低下や、出勤はしているものの心身の不調により生産性が落ちる「プレゼンティーズム」への対応は後回しにされがちだった。さらに近年は生成AIの急速な普及により、現場で求められる業務スピードや情報処理量そのものが底上げされている。リスキリング施策によってスキル面での適応を支援する企業は増えてきたが、その前提となる体力・認知機能・集中力といった「身体的な土台」への投資は、これまで人事戦略の中で明確に位置づけられてこなかった。企業にとって「高齢者をとにかく雇い続ける」ことは、もはやゴールではなく出発点に過ぎなくなりつつある。シニア層が変化の速い業務環境の中でパフォーマンスを維持できるかどうかが、次の経営課題として浮上している。
EHGという新しい福利厚生の概念
こうした課題への一つの応答として、一部の先進企業の間で広がりつつあるのが「EHG(Employee Health & Longevity=従業員の健康寿命延伸)」という考え方だ。これは、疾病の早期発見を目的とする従来型の健康診断や健康経営の枠組みから一歩進み、従業員の「生物学的年齢(体内年齢)」の維持・低減を目指す、より能動的な予防投資を指す。
生物学的年齢とは、DNAのメチル化パターンなどから算出される「エピジェネティック・クロック」と呼ばれる指標に基づき、暦年齢とは独立して算出される老化の進行度を表す概念である。国内でも、日本人の遺伝的特性に最適化した生物学的年齢測定検査が2024年以降に市場投入されるなど、研究・実装の両面で動きが加速している。背景には、世界保健機関(WHO)が老化に伴う疾患群を治療・予防の対象として位置づける方向を示していることもある。
これまでこうした予防医療・ロンジェビティ(長寿)関連サービスは、高精度の遺伝子解析や代謝・睡眠トラッキング、会員制の高度人間ドックなど、主に個人の富裕層向け(B2C)に高価格帯で提供されてきた。それが近年、企業がハイクラス人材のリテンションや、シニア役員・幹部のパフォーマンス維持を目的とした福利厚生としてB2B契約するケースが増えている。会員制の「経営層向け人間ドック」を法人契約で導入する動きはすでに一定の広がりを見せており、EHGはその延長線上に位置づけられる。
「健康経営における投資対象は、これまで“病気の早期発見”が中心でした。しかしAIによる業務変化のスピードが上がる中で、経営層が関心を持つのは“何歳まで元気にパフォーマンスを発揮できるか”という時間軸の話に変わってきています。EHGは、健康経営とタレントマネジメントの交差点にある概念だと捉えています」(人事労務コンサルタントで社会保険労務士の松田美里氏)
なぜ今、企業が「従業員の健康寿命」に投資するのか
企業がEHGに資金を投じる動機は、大きく三つに整理できる。
第一に、医療費や休業リスクの削減という直近のROIである。生活習慣病の重症化や認知機能の低下は、長期休業や早期離職の要因となりうる。健康経営の実務では、欠勤(アブセンティーズム)そのものよりも、出勤していながら生産性が低下している状態=プレゼンティーズムによる損失の方が大きいという分析が広く共有されており、経済産業省の「健康投資管理会計ガイドライン」などでもプレゼンティーズムは重要な測定指標として位置づけられている。WHO-HPQ(世界保健機関・健康と労働パフォーマンスに関する質問票)など標準化された測定手法を用いて不調の兆候を定期的に捉え、シニア層のプレゼンティーズムを抑制することは、企業にとって定量化しやすい投資回収の入り口になる。なお、女性特有の健康課題による経済損失を経済産業省が年間3.4兆円規模と試算するなど、健康課題を金額換算して経営判断の材料とする手法自体は、他の健康経営領域でもすでに実践が広がっている。
第二に、人的資本開示の文脈での位置づけだ。内閣官房・金融庁・経済産業省は2025年12月、「人的資本可視化指針」の見直しを公表し、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)が示す基準への対応を強化する方針を示した。人事情報の国際規格であるISO 30414も2025年に改訂版が発行されており、従業員の安全衛生に関する定量指標の開示は、国際的にも標準化が進む領域となっている。有価証券報告書における人的資本開示は既に定着しつつあるが、開示項目の多くは女性活躍や研修投資額といった既存指標に偏りがちで、シニア層の健康・パフォーマンス指標を体系的に開示している企業はまだ少ない。従業員の健康関連指標を定量データとして開示することは、投資家に対して人的資本投資の実効性を示す材料になり得る。
第三に、採用・リテンションにおける差別化である。優秀なシニア人材や、健康意識の高いミドル・若手層にとって、健康寿命への投資を掲げる企業は魅力的な選択肢となりうる。次世代型の福利厚生として、EHGを打ち出す企業が今後増える可能性はある。
「開示の文脈で健康指標を語るときに注意すべきは、“見栄えの良い数字”を作ることが目的化してしまうことです。プレゼンティーズムのスコアや生物学的年齢の指標は、あくまで従業員一人ひとりの予防医療を後押しするための手段であり、開示のためのKPIに矮小化すべきではありません」(同)
リーガルと運用の注意点:プライバシーとYMYLリスクの回避
EHGを制度として導入する上で避けて通れないのが、プライバシー保護とコンプライアンス設計である。生物学的年齢やゲノム関連データは、個人情報保護法上の「要配慮個人情報」に準じる機微な情報として扱う必要があり、人事評価や配置転換に流用されるのではないかという従業員側の懸念は無視できない。導入企業には、データを匿名化・統計処理した上で本人にのみ結果を返す設計や、参加を任意とするオプトイン方式の徹底、人事部門から独立した産業保健スタッフによるデータ管理体制の構築が求められる。
また、特定のサプリメントやサービスについて「若返る」「老化が止まる」といった効果を断定的にうたうことは、医薬品医療機器等法(薬機法)や景品表示法上のリスクにも直結する。企業が導入するプログラムは、あくまで産業医や保健師と連携した予防医療プロセスの一環として設計し、効果を断定しない形で情報提供することが、コンプライアンス上も望ましい。
シニア活用を「コスト」から「競争力」へ
現時点でのEHGは、費用面からもエグゼクティブ層や一部のハイクラス人材向けの取り組みにとどまる例が多いとみられる。しかし、生物学的年齢測定などの検査コストは技術の普及とともに低下していく可能性があり、対象範囲が管理職層、さらには全社員へと広がっていくシナリオは十分に考えられる。健康経営の歴史を振り返っても、当初は一部の先進企業の取り組みだった施策が、経済産業省の顕彰制度などを通じて業界標準へと広がっていった前例がある。EHGが同様の道をたどるかどうかは、導入企業がプライバシー配慮と効果検証を両立させ、実務として持続可能なモデルを示せるかにかかっているだろう。
日本は「超高齢社会」を世界に先駆けて経験している国であり、定年延長という制度整備と、EHGのような健康寿命への投資を組み合わせたモデルを確立できれば、それは日本企業にとって数少ない「先行者優位」を築ける領域になり得る。ただ高齢者を雇用し続けるフェーズから、従業員一人ひとりの健康寿命に投資し、パフォーマンスを支えるフェーズへ——人的資本経営の次の焦点は、そこに移りつつある。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=松田美里/社会保険労務士)
【主な参照データ】
労働政策研究・研修機構(JILPT)「70歳までの就業機会確保の実施率40%以上の達成をめざす」(ビジネス・レーバー・トレンド 2026年5月号)
内閣官房「人的資本可視化指針の見直しについて」(2025年12月)











