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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

クラシックオーケストラ、客が想像もつかないコンサートの“楽屋事情”

文=篠崎靖男/指揮者

 ちなみに、典型的な楽屋には長机があり、等間隔に鏡とコンセントと椅子が並んでいます。これは「化粧前」と呼ばれ、特にオペラ歌手や合唱団のメンバーが順番に座って化粧をしたりする場所です。そんな限られたスペースに20名くらいの楽員たちが荷物を持って入ると過密状態になるので、ほかの楽員の燕尾服にしわが寄らないように気をつけながら、自分の服をハンガーにかけ、楽器を取り出し、必要品が入ったカバンを遠慮がちに広げ、弁当を食べたりするのです。そんな場所なので、何も知らない若い楽員が派手に荷物を広げたとしたら大変です。そんなことを先輩たちに叱られながら楽屋でのマナーを覚えていき、演奏会が終わり部屋を使ったあとは、椅子や机をきれいに戻しておくのも若手の仕事です。意外に思われるかもしれませんが、楽屋をきれいに使い終えることは、プロになって最初に教わる基本なのです。

指揮者の楽屋が汚い理由

 しかし、指揮者は初めて指揮を振る日から個室を与えられるので、そんなマナーをまったく知りません。自由に燕尾服をかけ、靴も適当に置いて、机にはカバンをドーンと広げ、ソファー付きの小机で弁当を食べます。そんな指揮者たちが3人集まってひとつの楽屋を使うのは、カオスのような状況でした。そのコンサートは、コンサートマスターの個室もなく、大部屋も足りないくらいだったので、「指揮者の部屋にご一緒しますか?」とお誘いしたのですが、彼はドアを開けた途端、少し驚いた顔をして「結構です。大丈夫ですから」とヴァイオリンケースを持って、どこかにいなくなってしまいました。

 ちなみに、一般のオーケストラ奏者が使う大部屋は、そこで楽器を弾く楽員はほとんどおらず、静かな場所です。自分の出番ぎりぎりまで練習しているソリストの個室とはまったく違う雰囲気です。オーケストラは、少なくとも20種類以上の違う楽譜を大勢で演奏するわけで、みんなが自分の気になる場所を別々に練習し始めたら、それこそカオスになります。しかし、なかには演奏会前におまじないのように決まった練習曲を奏でる楽員もいるので、閉鎖空間でそんなことが始まったら、もう耳を押さえたくなるに違いありません。

「おまじない」といえば、演奏会というのは、練習で100回成功し続けたとしても、本番で失敗してしまえば“できそこない”になるという恐ろしい仕事なので、験を担ぐ音楽家も少なくありません。

 また、ホール自体も安全に気を配らなくてはならないこともあり、日本ではオペラのような大掛かりな舞台芸術を開催する劇場には、必ずといっていいほど、楽屋口を入ってすぐの場所に神棚が置かれています。そこで、『カルメン』や『蝶々夫人』で主役を務める日本人のスター歌手が、本番直前に神妙に柏手を叩いている姿は、実によく見かける光景です。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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