まず、同級生によるいじめがあったという事実を明らかにすること。今のところ学校側はいじめの存在を認めていないが、いじめがあった可能性は極めて高い。複数の同級生が、「特定のグループに毎日のように頭をたたかれ、髪の毛をつかまれて机に頭を打ち付けられていたこともあった」「本人は『やめて』と嫌がっていた」と証言しており、いじめの範疇を通り越して、もはや暴行といえる。
また、「クラスの他の生徒たちは、かかわりたくないので距離を保っていた」と同級生が述べているように、見て見ぬふりをする周りの雰囲気にも問題がある。亡くなった生徒に一人でも仲間がいたならば、自殺は防げたかもしれない。いじめられている側に寄り添うのは簡単ではないが、放置することがどれほど無責任な行為であるかという認識を共有するべきだろう。
今のところ家庭環境について報じているメディアは見受けられないが、生徒のSOSが担任教諭に対してだけ発せられ、親に一切相談はなかったのであろうか。親に心配をかけたくないとの思いから相談できなかった可能性はあるが、もし相談していれば何か対応できたのではないかと思うと残念でならない。
担任教諭についてだが、対応の無責任さについては、一定の批判は受けてしかるべきだろう。中学2年生が「死にたい」などと口にするのは珍しいことでもないが、前後の流れから深刻さを読み取らなければならない。特に、同級生からの暴力を示唆するような記述があったのに、なんら対処していないというのは無責任すぎる。生徒のノートには、具体的な加害者名が記載されており、日常的にいじめられていた様子がうかがえる。そして、それを保護者や校長にも相談していないというのは、教師としての責任を果たしていないといえる。
最後に学校側、ひいては校長の対応だ。担任教諭からいじめの相談がなかったとしても、それで責任がないとはいえない。それにもかかわらず、知らぬ存ぜぬといった発言を繰り返しているあたり、あまりにも無責任だ。同校では、年に3回いじめに関する調査をして教育委員会に報告するとしているが、5月に予定していた調査は行わなかったという。一連の対応を見ていると、いじめについての認識が甘いといわざるを得ない。
今回の案件に限らず、いじめを苦に自殺する生徒たちは、味方を見つけられず孤独に打ちひしがれて死を選ぶことが多い。いじめがあるかないかだけを調査するのではなく、同級生、教師、親きょうだいなど、親身になって支えてくれる人がそばにいるかどうかを調査することが必要なのではないだろうか。
(文=平沼健/ジャーナリスト)