茶道の異端児、秀吉の素顔 冗談連発の愉快な茶会、ド派手な衣装や高価な茶器で客を幻惑
茶の湯が戦国武将の間で政治利用されるようになったのは、織田信長の頃だ。京都に足を運んだ信長は「御茶湯御政道」という政策を始め、自分が認めた家臣のみに茶の湯を許可した。これにより、茶の湯は武家の儀礼として認知されていくことになる。
秀吉も、信長から茶の湯を許された1人だった。茶室は、血生ぐさい戦場を離れた精神修練の場として使われるほか、密談の場でもあった。そこでは、武器の売買から謀略の密議まで行われていたという。
秀吉の茶には、スキャンダラスな話題も多い。1日で突如中断された北野大茶会、茶の湯のカリスマ・千利休が制作に関わったとされる黄金の茶室、秀吉が切腹を命じたといわれる利休の死の理由……。
今回は、秀吉の茶の湯の現場を追うことで、天下人のリアルな人柄に迫ってみたい。
「入れや!」「飲めや!」「よく見せろや!」
信長が始めた茶の湯の政治利用を、秀吉はさらに推し進めた。秀吉の時代には、茶の湯の政治利用はピークを迎えていたのだ。
そんな秀吉の茶会の様子は、博多の豪商であり茶人の神屋宗湛が『宗湛日記』の中に記している。
宗湛は秀吉から厚遇された人物で、博多の復興や朝鮮出兵にも関わった。秀吉の晩年には側近として活躍しており、『宗湛日記』からにじみ出る秀吉の姿は、実に面白い。
1587(天正15)年6月19日、博多で行われた茶会でのこと。宗湛が茶席に近づくと、秀吉は声高に「入れや」と障子を開け放ち、宗湛を招き入れたという。
茶道史研究家の矢部良明氏は、「亭主がこんな呼び声を発することは、普通の茶会ではあり得ない」と指摘する。ほかにも、秀吉は「よく見せろや」などの発言を残している。
さらに同年、大坂城における大茶の湯の席では、宗湛は秀吉から「客が多いから、ちょっと一杯を3人で飲めや」と言い渡される。これは、何もケチっているわけではない。吸い茶と呼ばれる回し飲みの方法で、秀吉の時代から生まれた茶の作法である。一つの理想を複数人で共有するという意味が込められており、参加者の意識を高める儀式として機能していた。
客が喧嘩して名物茶器を破損
しかし、吸い茶が普及する前は、客もその意味が理解できず、戸惑うことがあったという。その極めつけが、奈良興福寺の塔頭多聞院の僧侶だった英俊が『多聞院日記』に書き残した、以下の出来事である。
「茶会で秀吉が茶を立て、『吸い茶で飲めや』と彼が申しつけると、5人の客たちは我先に一杯の名物茶碗を取り合おうと競い、喧嘩になる始末。果ては取り合った茶碗は5つに割れて砕けてしまった」「筒井筒」というこの茶碗は、名前の通り筒井順慶が秀吉に献上した名物茶器で、秀吉の大のお気に入りだった。秀吉は、茶器に入れ込んでおり、例えば「似たり茄子」という茶器を6000貫文、現在の価格にして約6億円で購入するほどであった。あの伊達政宗ですら、茶器を落としそうになって肝を冷やしたことがあるという。
当然、座の一同は凍りついた。そこで、和歌の達人である細川幽斎が、機転を利かせて歌を詠んだ。
「筒井筒 五つに割れし 井戸茶碗 咎をば我に 負ひにけらしな」(名物茶碗が5つに割れてしまった。この罪は私が背負いましょう)
この歌は、『伊勢物語』の名歌を替え歌にした狂歌である。茶器を割った危うい状況を大胆にパロディにした幽斎に、秀吉は興をそそられた。場は和み、ひとまず無事に収まったのである。
現在、5つに割れた筒井筒は修復され、国の重要文化財に指定されている。
大友宗麟を招いた「黄金茶会」で冗談を連発
1586(天正14)年4月5日。秀吉は豊後国(現在の大分県)の大友宗麟を迎え入れ、大坂城内の黄金の茶室で茶の湯を行った。壁、天井、柱、障子に至るまで金箔ずくめで、道具も黄金に輝いているこの茶室は、組み立て式のため庭に持ち運ぶこともできる。その茶室で秀吉の茶を飲むという体験は、どんなものだったのだろうか。宗麟の手紙には、こう記されている。
「まず、黄金の席と、黄金の茶道具を使って千利休が茶を立てる。あいさつを済ませると、秀吉が自ら濃茶を練る段になった。その間中、彼は冗談を連発して席中の人々を笑わせる。雑談も思いのほか多く、なんとも愉快であった。このような面白さは、直接顔を合わせて話さない限り伝わらない」
秀吉の気遣いに癒された宗麟は、感謝と崇敬の念でこう綴っている。こうした記述から、秀吉の茶会は明るく開放的であったとされている。
黄金の茶室の輝きと共に飲むお茶の旨みは、多忙な宗麟に心のゆとりを取り戻させたようだ。しかし、その半面、宗麟は強烈な刺激とインパクトを感じていたはずだ。それは、秀吉の衣装についてである。
ド派手で強烈な秀吉の衣装
秀吉の茶の師匠である利休は、手紙の中で黄金の茶室での秀吉の衣装について述べている。それによれば秀吉は、金箔を貼りつめた席や赤い紋紗を貼った障子に映えるように、表着、袴、羽織、頭巾まで緋色ずくめの派手な衣装だったという。
派手好きな秀吉の面目躍如たる演出といえる。しかし、この演出は単に「派手好きだから」というだけのことだろうか?
秀吉は、かつて茶の湯嫌いの黒田如水に茶の味を教え、如水を茶の湯の虜にしたことがある。秀吉にとって茶の湯は、ただ茶を楽しむ場にとどまらなかった。秀吉は、「普段、我らが会って密室で話せば、何を企んでいるかと思われる。だが、茶の湯であれば周りは警戒しない」と考えたのだ。
秀吉ほど、茶の湯の政治性や客を取り込む仕組みにこだわった男はいない。 客を幻惑させ、心をつかむ秀吉流の仕組みが、この茶室には仕掛けられている。
宗麟が案内された日の秀吉の衣装も、濃い赤と青が大胆なコントラストの強い衣装だった。肌着には赤い平絹の小袖に、白の小袖を重ね着した濃艶な取り合わせで、桐紋、幅五分ほどの横縞が三筋入った思い切ったデザインだった。裃と袴には、濃紺地にやはり派手な模様があしらわれていたという。
茶道界において、秀吉のような茶人が現れた例はほかにない。茶道は、現代では沈黙の中で“おもてなしの心”を身につけられると評判だ。また、四畳半などで湯を沸かし、茶を立て、振る舞うという一連の所作を指す伝統文化である。特に、「茶聖」と呼ばれた利休が「わびさび」を重視して以来、茶の湯は高い精神性を獲得し、日本独自の美の様式として発展してきた。
しかし、今回見てきた秀吉の煌びやかで自由な表現力、短気でざっくばらんな態度もまた、茶道文化をかたちづくってきた要因である。
秀吉と茶の湯の出会いによって生まれたものは、スタンダードに対する「逸脱」だった。現代では、そうした逸脱はある種の「事件」として扱われる場合がある。安土桃山時代、秀吉は自身が与える衝撃について、どれぐらい自覚していたのだろうか。
秀吉の時代に広まった茶の湯を政治利用する慣習は、徳川家康の台頭と共に、江戸時代には衰退していった。しかし、秀吉が茶の湯で残した振る舞いや発想のインパクトは、決して消えることがない。
(文=丸茂潤吉/作家)