ところが、政府はそうした声に耳を傾けず、ひたすら法案を原案通りに今国会で成立させる姿勢を変えていない。そうした対応に、抗議行動の現場では政府への反発が高まり、法案への批判のみならず政権退陣を激しく迫るようになっている。国会前の抗議行動でも「安倍やめろ」の大きな横断幕が最前列に掲げられた。
現場と世論の間の“乖離”
ただ、この点では世論の風向きは異なる様相を見せている。世論調査における安倍政権に対する支持率は復調。戦後70年談話への評価もまずまずだ。日経新聞が8月28~30日に行った世論調査では、内閣支持率は前月よりも8ポイント高い46%、不支持率は10ポイント低い40%で、「支持」が「不支持」を上回った。
ここに着目すると、抗議行動の現場と国民世論に、若干の乖離が生じ始めているように見える。
60年安保の時には、岸信介首相を退陣に追い込んでも、次の首相となった池田勇人ら6人が総裁選に名乗りを上げた。ところが今の自民党は、総裁選挙も行われる見込みが立たないほど人材が払底。リベラル勢力から期待を寄せられていた谷垣禎一幹事長も安倍首相の続投を支持し、「(安倍首相は)岸元首相の役だけでなく、(「寛容と忍耐」を掲げて低姿勢の政権運営に徹した)池田元首相の役割も果たしてください。敵味方をはっきりさせて安保関連法制を作ったら、次は国民統合を考えてください」などと言い出す始末だ。安倍政権に共鳴できないとしても、その次がさっぱり見えない。そんな現実も、政権を下支えしている。
この現実を直視せず、次のリーダーを押し上げていく創造的なうねりが起きないまま、政権退陣を叫び続けても、現場の感覚と世論の乖離は広がっていくのではないか。それを考えると、一連の抗議行動を過小評価するのは間違いだが、かといって過大に評価するのも違うように思う。
また、こうした抗議行動では、論点が絞り込まれシンプルなスローガンが連呼されるため、複雑な現実が単純化されてしまう傾向があることも忘れてはならない。スローガンはシンプルであるほど力強く響き求心力もあるが、発想が善悪二元論に陥りやすく運動外の世界が見えにくくなる。政権の支持率回復のニュースに、法案反対派の人たちから「信じられない」「何か操作されているのでは」といった反応が返ってくるのは、そうした兆候の現れだろう。
二元論に陥りがちなのは、法案反対派だけでなく賛成派の人にもいえる。権力と同調し、「イエス」ばかり叫んでいると、政府の問題点に目が向けられない。考えの違いを認められず、自分たちは常に正しく異論は間違いという極論に走りやすくなる。
このような極論と極論のぶつかり合いからは、建設的な議論は生まれない。現実に政治を変えていくには、「よい/わるい」といった二元論を超えて、「悪さの程度がより少ない」ものを求め、選んでいくような、複雑で柔軟な発想が必要なはず。自分にとって「ベスト」を実現できることはまずなく、とりわけ野党的立場にある者は、わずかのプラスを獲得するために粘り強い議論をしたり、最悪の事態を避けるためだけに多くの妥協を重ねなければならない。与党的立場の者もそれに応じ、ぎりぎりまで合意を目指す。「政治は妥協の芸術」といわれる所以である。