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江川紹子の「事件ウオッチ」第134回

【『表現の不自由展』中止問題】津田大介氏による「お詫びと報告」に対して生じる疑問

文=江川紹子/ジャーナリスト

 さまざまな懸念が予想された少女像の展示について、津田氏が「実現は難しくなる」と伝えると、不自由展実行委は強く反発。「少女像を展示できないのならば、その状況こそが検閲であり、この企画はやる意味がない」と断固拒否した、という。

 それなら、不自由展実行委が会田氏の作品を拒絶したのは、「検閲」に当たらないのだろうか。こうした矛盾に対しても、芸術監督は何もできなかったのだろうか。

 昭和天皇の写真を含むコラージュが焼かれるシーンが問題視されたのは、大浦信行氏の映像作品『遠近を抱えてPartII』。かつて富山県立近代美術館が購入した、同氏が制作した昭和天皇の肖像を用いたコラージュ作品『遠近を抱えて』が、県議会などの批判を浴び、同美術館は作品を売却、図録を焼却処分とした。『PartII』は、その体験を経てつくられた新作だった。

 新作の出品は、公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する企画展のコンセプトになじまない、と津田氏が指摘したが、大浦氏からは、ひと続きの作品であり、『PartII』が展示できないなら『遠近を抱えて』を取り下げると通告された。これについても、「不自由展実行委の判断を優先しました」と津田氏は書いている。

 その理由を、彼は長々と次のように説明している。

<そもそもの企画が「公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する」という趣旨である以上、不自由展実行委が推薦する作品を僕が拒絶してしまうと、まさに「公的なイベントで事前”検閲”が発生」したことになってしまいます。(中略)この2作品を展示作品に加えた場合、強い抗議運動に晒されるリスクがあることは理解していましたが、自分の判断で出展を取りやめにしてしまうと同様の事前”検閲”が発生したことになります。芸術監督として現場のリスクを減らす判断をするか、”作家(不自由展実行委)”の表現の自由を守るかという難しい二択を迫られ、(中略)最終的には僕は出展者である不自由展実行委の判断を尊重しました>

 この長い文章を読み返せば読み返すほど、腰の定まらない感じがするうえ、「芸術監督」の権限と責任とはなんなのだろう、という疑問も膨らむ。

「お詫びと報告」には、抗議電話対策についても書かれ、「限界がありました」とされているが、本当に考えられる対応をやりきっているのかは、かなり疑問だ。

 不自由展実行委の岡本氏は、週刊誌「アエラ」(朝日新聞出版)の取材に答えて、対策の不備を訴えている。たとえば、設置を要望した自動録音や番号通知機能のある電話の配備も一部にとどまり、「現場の最前線に立たされる人への対応が不十分」と感じた、という(本稿を書くにあたって、私も不自由展実行委にも事実関係を確認しようと努めたが、回答は得られなかった)。

 電話回線を増やすだけでなく、企画展のやり方そのものについても、考えるべき点があったように思えてならない。

 たとえば、警備や電話対策に人や経費を集中的に投入するため、企画展は60日間の「トリエンナーレ」の期間いっぱいやるのではなく、展示期間を最初から短く設定する、というのもあり得ただろう。

 少女像について言えば、かつて東京の美術館で撤去されたのはミニチュア版であり、本企画のコンセプトに照らせば、等身大のものではなく、ミニチュア版の展示にする、という方法もあったと思う。

 また「わいせつ表現」とされた性表現関連の作品を含めれば、強烈な政治色が薄まるという以上に、観客の視野が広がって、アートにおける「表現の自由」についての議論につながったのではないか。

 不自由展実行委は、そういう妥協は許せないと納得せず、自分たちの企画を引き上げたかもしれない。そうであれば、芸術監督自身が作家と個別に交渉し、会田氏やろくでなし子氏らにも声をかけ、集まった作品で企画展を実行すればよかったのではないか。そういう権限と責任は、芸術監督にあるのではないか。責任と権限を持った者が、妨害に対する最大限の対応を準備したうえで、やり抜く覚悟をもって開幕しなければ、今回のような困難なイベントは無理だろう。

 しかし、責任と権限の所在がはっきりせず、覚悟もあいまいで準備も不十分なまま、本番になだれ込んでしまった。極めて日本的な出来事だったようにも見える。そこには、なんとかなるだろうという楽観的な思いはなかっただろうか。

 主催者側の問題については、検証委員会(座長=山梨俊夫・国立国際美術館長)が発足し、会合も始まったので、詳細な事実経過が明らかになるのを期待したい。

“愛国的行動”が生む逆効果


 同時に、今回の出来事は、韓国や天皇などが絡む問題について、日本では人々が感情を沸騰させやすく、異論に対して極めて不寛容な状況にあることを内外に示した、といえる。

 広場や公園などに展示され、そこを通る人の目にいやでも飛び込んでくるパブリックアートとは異なり、「トリエンナーレ」は限られた閉鎖空間で、しかも期間限定で行われる催しだ。そういう場合、展示物が不快なら、見に行かなければいいだけの話だ。

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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