しかし、これは誤解にすぎない。彼の政治家としての視線は、決して国民に向けられてはいなかったからだ。さらに、政治家としてのキャリアを見ても、その政治思想は平民に近しいものだったとは言いがたい。
原の政治キャリアの最初に大きく関係していた人物は、伊藤博文だ。日本初の総理大臣であり、明治時代を代表する大物政治家である。伊藤は、大日本帝国憲法の作成に主導的な役割を果たしただけでなく、晩年は政党政治の確立に意を注いでいた。
その伊藤が、自らの政党である立憲政友会を創設する時、相談を持ちかけた人物が原だった。原は当時、大阪毎日新聞の「編輯(へんしゅう)総理」という地位にあり、実質的な社長の立場だった。
つまり、伊藤は成長著しい新聞というマスメディアのトップに、自身の政治的な行く末について、意見を求めたわけだ。当時の大阪毎日新聞は「不偏不党」を社是に掲げていたこともあり、原は新党創設に当たり、表立って名前を出すことはなかったが、少なくとも政治家としての入り口に差しかかったことは間違いない。
原は、「数こそ力」という論理の信奉者だった。大阪毎日新聞時代は、自らの筆で読者を獲得し、トップに立てば発行部数3倍増という大躍進を達成している。
そんな原も、政友会の一員として政界に入ってすぐ、数の力を思い知らされる。伊藤と並ぶ長州閥の大物である山縣有朋と対立し、敵の数に圧倒されて一敗地にまみれたのだ。
原の対抗策は、自身の勢力基盤である内務省を軸に、給料の大幅アップなどで官僚の心をつかむことだった。そうやって味方を増やし、影響力を強めていくが、それは所属する政友会の勢力拡大にも役立った。
以後、原は基本的に党勢拡大を主眼に置いた政界工作に邁進する。例えば、1910年に多数の逮捕者を出した幸徳事件の事後処理にあたり、原は同じく野党だった立憲国民党・犬養毅の要求を拒絶し、政権禅譲を示唆した桂太郎首相にくみした。桂は、原が対立していた山縣の忠実な子分であるにもかかわらず、である。そのため、政権禅譲が実現するや否や、原は桂と縁を切っている。
そうやって原が首相になったのは、18年だ。翌19年には、衆議院議員選挙法を改正し、政友会に有利になるように小選挙区制を導入し、有権者を増やす施策も講じた。さらに、20年には衆議院を解散し、合法的に党勢を強化した。議席の約6割を確保し、「泣く子と政友会には勝てぬ」という言葉まで生むほど、独占的な議会運営を可能にしたのだ。
原が「平民宰相」と呼ばれ続けたワケ
ところで、原は選挙法改正によって現在のような普通選挙に近づけたわけではない。逆に、衆愚政治を恐れる彼は、庶民に政治参画の機会を与えることを渋っていた。
経済政策では、一部の資本家などを優遇することもあり、鉄道網の拡充に熱心だったのは地域活性化のためではなく、党を利する政商への配慮だったといわれている。昭和の時代によく見られた、政治家による我田引水的な鉄道敷設は、原が元祖だったともいえる。
原は21年に暗殺されるが、犯人は政商を利する原の政治に不満を持って犯行に及んだともいわれる。当時の政友会は、後に会員3人が逮捕された満鉄疑獄事件が示すように、党利党略のために手を汚すという側面も持ち合わせていたのだ。
では、なぜ原は平民宰相と呼ばれたのか。それは、単純に帝国議会において貴族院ではなく衆議院の議員であり続けたため、ともいわれる。そして、爵位を固辞し続けた点も大きいだろう。
そんな原も、晩年は名誉が欲しいと思ったのか、貴族院への転身を企図していたといわれるのだが……。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)