歴史の教科書に載っていない天皇がいるのをご存じだろうか。
今上天皇まで125代にわたる天皇の皇統譜に入っていないのが、南北朝時代(1336~91年)の北朝の天皇である光厳天皇(在位1331~33)だ。光厳天皇は、時代は鎌倉末期から南北朝時代、当時持明院統(後深草天皇の系統)と大覚寺統(亀山天皇の系統)に皇統が分かれていた「両統迭立」の時代に、持明院統の天皇として元弘元年(1331)に即位している。
両統迭立は、交互に天皇を出し合い、おおむね10年で交替することにしていたのだが、持明院統から大覚寺統への皇位移譲の流れのなかで、後醍醐天皇が践祚(せんそ=位に就くこと)すると、これまでの鬱積を一挙に晴らすごとく専制へと傾斜。そして譲位の要請にも応じることなく、その権力の一層の強化を図った。そして1324年の正中の変、さらに1331年の元弘の変を起こし、その結果、後醍醐天皇は隠岐に配流された。代わって践祚したのが光厳天皇というわけだ。
しかし、この頃には、鎌倉北条執権政治に対する反幕府勢力が既成の秩序から逸脱した悪党とともに台頭。そのため、後醍醐天皇は隠岐から還御し、さらに足利高氏(後の尊氏)が鎌倉幕府に反旗を翻し、鎌倉幕府の本拠地、六波羅を攻撃する事態となった。
そのとき鎌倉幕府によって保護されていた光厳天皇は、後伏見、花園両上皇とともに、六波羅探題北条仲時の軍勢と関東に逃げ落ちることとなったが、途中の江州番場宿で、足利軍優勢に乗じた野伏(のぶせり)の襲撃を受ける。野伏らは、光厳天皇と六波羅軍を完全に包囲し、そのため「もはやこれまで」と悟った仲時以下六波羅軍は、壮絶なことに432名が一斉に切腹をするという事態になったのだ。このとき光厳天皇もまた野伏の矢を受け負傷し、さらにこの凄惨な場面を目前で見せられたという。その後、光厳天皇らは捕らえられて幽閉されることになった。
しかし、その後、足利尊氏と後醍醐天皇は対立し、室町幕府を開設した尊氏は、光厳天皇の弟である光明天皇を即位させ、そこで光厳天皇は上皇となりひとまずの安心を手に入れた。ただし、後醍醐天皇が自身の廃位と光厳天皇の即位を否定したために、皇統譜には含まれないことになってしまった。その後も、足利尊氏や南朝側に拉致・幽閉されるなど、苛烈な人生を余儀なくされる。