裏切り者の覚悟
KGBの上級学校を卒業すると、プーチンは晴れてKGB職員として働き始める。KGBという言葉には恐ろしいイメージがある。確かにKGBには国内治安監視を行う秘密警察的な部署もある。
プーチンが就いたのは、対外諜報活動の部署だ。アメリカのCIA、イギリスのSIS、フランスのDGSE、ドイツのBNDのようなもので、たいていの先進国が行っている活動だ。
「プーチンが働いたのは中央のモスクワではなく、レニングラード。その後は東ドイツのドレスデンで活動しました。ゴルバチョフ時代にKGB議長だったウラジーミル・クリュチコフは、プーチンのことは知らなかったと言ってますね」(同)
モスクワとレニングラードは、東京と函館ほど離れている。ドレスデンはベルリンから遠く離れた、ドイツの東の端だ。プーチンがいた89年、東ドイツでは民主化のデモが巻き起こり、ベルリンの壁の崩壊へと至っていく。そうした情報を送り続けても、モスクワからは何の指示もなく、その無能ぶりにプーチンは失望を深める。
90年、ソ連に戻ったプーチンは、レニングラード大学の学長補佐に就く。民主派リーダーのアナトリー・サプチャークがレニングラード市長となると、その国際問題担当顧問として手腕を発揮し、プーチンは副市長となる。この間にプーチンはKGBを辞職し、KGB本部主流派から「許せない裏切り行為だ」と罵られた。
サプチャークは96年に市長選に敗れた後、国有財産横領の嫌疑をかけられた。捜査の手が伸びるなか、プーチンはサプチャークを軍事病院に入院させた後、フランスへ亡命させた。自分の政治生命が危うくなるほどの大胆な行動で、恩師を守ったのだ。
これが当時のエリツィン大統領の目に留まり、大統領府の副長官に任命され、首相を経て、プーチンは大統領の座に座ることになる。
プーチンがKGB職員だったことは事実だが、身を挺して民主化を推し進めてきたことで、かつてのKGBから裏切り者と指弾される人物なのだ。
「プーチンはとにかく頭がいい。すべてのことに通じていて、4時間でも5時間でも、資料も何も見ずに自説を述べることができる」(同)
日ロ会談の意味
プーチンの目に、首脳会談はどう映ったのだろうか。当然のことながら、日本の政府・官僚の間に、親米派(=外務省をはじめとする北方4島一括返還派)と反米自主派(北方2島返還派)の対立があることはプーチンも知っている。安倍首相は今回の首脳会談で、北方2島先行返還を合意する腹づもりであったとされているが、プーチンはそれもわかっていたはずだ。