新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大で、グローバル化対応という錦の御旗のもとに大学の9月入学の議論がにわかに盛り上がり、一気にしぼんだわけだが、この議論はコロナ禍への地方の便乗でしかないように思えるのは筆者だけであろうか。議論そのものも、話題性だけで稚拙である。
ご興味のある方は、今回の9月入学議論に関する県や政治家、大学などの発言を「should(根拠のある“すべき”)」「want(したい)」「can(できる)」の観点で分類してみると良い。知事や地方の大学の発言は、グローバル化対応を錦の御旗に「should(べき)」のようには言っているが、実際は「だったらいいな」程度の「wishful thinking(根拠のない願望)」のレベルの「want」でしかない。そして、9月入学にすればどうにかなるといった感じで、「can」の議論はほとんどなかったと言ってよい。5月11日付日本経済新聞朝刊に掲載された早稲田大学の田中総長の論考『「9月入学」課題多く 現場の声聞き、戦略緻密』は、とてもよく要点をついている。
そもそも、9月入学を実施したいなら、完全セメスター制にすればよいだけのことで、こんなに大騒ぎをする必要はない。ちなみに完全セメスター制では、半期で2単位となり、春期と秋期の講義は独立する。現在日本の大学で多数を占める通年制では、春期・秋期の順で通年でとり、それで4単位となる。
完全セメスター制は通年制ではないので、9月から1年留学しても問題はない。4月でも9月でも入学、卒業は可能となるはずだ。筆者が教鞭をとる明治大学でも、主に海外からの学生を念頭に置くET(英語学位課程)の学生は9月入学であるし、JT(日本語学位課程)の生徒でも9月卒業は可能である。しかし、JT学生の9月入学はなぜか聞かない。明治大学でもダメである。ゆえに今のセメスター制度は通年を単に2つに分けた疑似セメスター制といわれる。
「英語を念頭に置いたグローバル化対応」と大学関係者が騒ぐのに、なぜ完全セメスター制にしないのか不思議である。英語での留学生(短期の交換留学生を含む)の受け入れとJT学生の留学だけを考えれば、疑似セメスター制にするだけでもよく、JTの9月入学に大きな問題はない。
おそらく、大学が完全セメスター制にしない理由は、通年で教えたいというのが本音の教員が多く、JTの9月入学を認めると事務が煩雑になるので嫌がっているか、ネイティブを念頭に英語で教えられる教員がほとんどいないのが理由であろう。9月入学は、実は制度ではなく大学内部の問題であるといえるかもしれない。
すでに企業は通年採用に移行
完全セメスター制を導入するのであれば、小学校制度から変える必要があるとか、企業の新卒一括4月採用も変える必要があるといった問題は生じない。企業は国と違って合理的なので、必要な人材の獲得のために制度を変えるのは厭わないはずである。事実、すでに多くの企業が通年採用に移行しつつある。
完全セメスター制度にすれば、学生にとっては9月入学・卒業という選択肢が増えるのであり、それでよいではないか。なぜその方向に議論が行かないのかは不思議である。日本人は、なぜ4月入学から9月入学への制度変更という議論に行くのだろうか。
多様化とは選択肢が増えることである。選択肢が増えるから頭を使って考えるので、選択肢がなければ頭を使って考えない。日本人に染みついた「変えるのであれば皆で一緒に」という感覚が抜けなければ、いくら文科省が「主体的に考える力を身に付ける教育が必要」と言っても、国民はそうならないだろう。いや、その文科省も国民も「選択肢が多いと混乱する」と言いそうである。
そもそも9月入学の議論の発端は、コロナ対応で来年度入試の実施が危ういかもしれないことから始まっているのであり、制度設計の問題を一時的なコロナ対応と混同すべきではない。よって非現実的な議論なので、一気に盛り上がったものの一気にしぼんだのも当然であろう。安倍前政権は、話題に乗って「我々も、やってるんです」感を出すためにお付き合いしただけだったのではないか。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)