明治元年(1868年)6月2日。
江戸城内西の丸大広間において、東征大総督・有栖川宮熾仁親王、関東観察使・三条実美らをはじめとする人々の臨席の下に、陣没者のための招魂祭が執り行われた。
これは有栖川宮の下した令旨に基づくもので、「これが後の東京招魂社の起源になった」との指摘がある。その東京招魂社を前身とするのが、靖国神社だ。
翌年、東京への奠都に伴い、同地に招魂社を建設すべき旨の勅令が下る。当初は、鳥羽伏見の戦いから函館戦争に至る新政府側の戦没者3588柱を祀るというものであった。
これを主として管掌したのが、軍務官副知事・大村益次郎である。その地を田安台、現在の九段坂上に選定し、仮殿が完成するや鎮祭式が催された。その折には相撲や花火などの余興、各隊による祝砲などの余興が行われ、参拝者への神酒の下賜などもあったといい、現在の「みたままつり」を彷彿とさせるものがある。
日本一の巨大鳥居の真実…靖国神社の転換期
東京招魂社の名称が「靖国神社」に改められたのは、明治12年(1879年)のことである。「招魂社」とは神霊を一時的に招き祀るように聞こえるので、それが常に九段の地にあるという観点からすれば、不適当とされたためである。そこで、別格官幣社になるに際して「靖国神社」と改称されることになった。
なお、この「靖国」という社号は『春秋左氏伝』にある「吾以靖國也」を典拠として明治天皇によって命名されたものであるという。
以後、逐次に神社の整備が行われる。明治14年(1881年)には武器などの展示施設である「遊就館」が竣工。この呼称も『荀子』の「君子居必擇郷遊必就士、所以防邪僻而近中正也」を典拠とし、宮内大臣・田中光顕によって命名された。
当該期の遺構として興味深いのは、現在「第二鳥居」と呼ばれている青銅製の鳥居である。現在も神門前に屹立するこの大鳥居は、明治20年(1887年)に大阪砲兵工廠の反射炉を用いて建造され、海路にて東京まで運び込まれた。また、青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇るとされるが、材料となった青銅は旧諸藩から献納された火砲であるあたりが、実に象徴的といえよう。
この頃、靖国神社の神職が陸海軍両省によって任命されるようになる。また、西南戦争や朝鮮半島の騒乱、幕末期に殉難したとされる人々が多く合祀されるようになったのもこの時期で、靖国神社が単なる「戊辰戦争での戦死者を祀る施設」から「国家に殉じた人々を祀る施設」へと、その性格を変えていく転換期でもあった。
戦後、GHQの神道解体計画で焼却の危機に
日清戦争に際しては、「戦捷祈念祭」や戦利品の陳列が行われている。また、日露戦争に際しては宣戦奉告のために勅使が遣わされ、臨時大祭をはじめとして「戦勝祈祷祭」や「戦勝報賽祭」などが催された。
つまり、すでにこの頃には「戊辰戦争の戦没者慰霊の施設」という限定的な存在から、「国家の祭祀と追悼を担う場所」に変容を遂げていたといえるだろう。戦争および事変などによる死者の合祀についても官報により告示されており、その転換をうかがい知ることができる。
その是非について、ここでは論じないが、現在も靖国神社が「war shrine」と呼ばれる一因となっている。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本の 「国家神道」 の解体を目的とする「神道指令」を出した。靖国神社も、この指令から逃れることはできなかった。
特に同社は国家主義や軍国主義を鼓吹するための神社であり、宗教ではなく愛国主義の表現形態であるため、「これを排除しても信教の自由には抵触しない」とされたのである。
当初はその焼却も検討されたが、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーからの諮問を受けたカトリック麹町教会のブルノー・ビッテル神父は「いかなる国家においても、その国家のために死んだ人々に対し、敬意を払う義務と権利がある」と強硬に反対したと伝えられている。
一方で、靖国神社側も遺族を中心とする慰霊施設としての「廟宮」へと、その性質を変えることで存続しようとしていた。昭和21年(1946年)には宗教法人としての認証を受けており、現在も靖国神社は一宗教法人としての立場を維持している。
しかし、歴史のなかで移り変わってきたにもかかわらず、今なお、かつてのあり方をもって肯定あるいは否定する人々が存在しており、8月15日ともなれば、双方の間で小競り合いが起きることもある。個人的には、政治的な立場は別にして、「静かに鎮魂と平和を祈念する場としてはどうか」と思うが、いかがであろうか。
(文=井戸恵午/ライター)