「山口組というのは、ひとつしかない。その山口組こそが六代目山口組なのだ。山口組の若頭に対して『会う用意がある』とインタビューかなんかで言っていたと聞くが、まったく立場が違う。山口組の組長に次ぐ立場である若頭をあまりにも軽んじている」
この幹部の話の中で印象的だったのが、「山口組はひとつしかない」という言葉だ。
そうした矢先に六代目山口組から本部通達として、ある伝達事項が出されたと多くの関係者らが口にし始めた。その通達とは、2015年の山口組分裂時に、六代目山口組が絶縁処分とした神戸山口組の井上邦雄組長、入江禎副組長、寺岡修若頭、池田孝志最高顧問、正木年男総本部長ら5人を再び六代目山口組に戻すことはない、というものであった。
ただ神戸山口組サイドからしてみても、この通達が出る以前に、任侠山口組とは立ち上がった理由が違うとして、再び六代目山口組とは合流しないことを宣言したと言われている。それだけ覚悟があったからこそ、神戸山口組は結成され、山口組分裂という、それまで不可能だといわれていたことを可能にしてみせたのだ。六代目山口組サイドからしても、絶縁者を戻すことはないとするのも当然といえる。
この通達で特筆すべきは、そこではない。この5人の親分衆以外に、「絶対に戻すことはない」とした人物として、織田代表の名もあったことだ。
筆者が話を聞いた関係者によれば、織田代表のパフォーマンスが過ぎた、ということが六代目山口組に戻すことはないとする理由だという。
それが結成時の記者会見なのか、「髙山若頭と会う用意がある」発言なのか、はたまたそれらすべてなのかはわからない。だが織田代表のなんらかの行為が、六代目山口組首脳陣の逆鱗に触れたからこそ、こういった通達が浮上したものと考えられる。
織田代表のカリスマ性は、現代において抜群なものがある。時代の寵児といっても過言ではないだろう。だからこそ、任侠山口組結成時に織田代表にスポットが当たったのだ。しかし六代目山口組、そして神戸山口組からすれば、それすらもヤクザの観点から照らし合わせると“パフォーマンス”と映ったのかもしれない。
これらの入り組んだ事情から、筆者は思った。山口組がひとつになるということは、ないのではないだろうか、と。
司組長と髙山若頭の絆
六代目山口組発足後、司組長と髙山若頭が2人揃って行われた年末の餅つき大会がこれまでに二度だけあった。2012年と2013年。それ以外はどちらかが社会不在を余儀なくされていたのだ。
2013年末の餅つき大会。そこには、神戸山口組を立ち上げる前の井上組長の姿も入江副組長の姿も寺岡若頭の姿もあった。その光景を筆者は、自身が仕えさせていただいた親分のお供で見ていた。筆者の目には、司組長と髙山若頭の2人の姿が対照的に見えた。
身体を動かし自ら杵を握り、餅をつく司組長。並ぶ屋台をたまに覗くだけで、あとは座った姿勢のままだった髙山若頭。筆者には司組長が六代目山口組の象徴で、髙山若頭らが六代目山口組の頭脳に見えたのだ。
「カシラも一緒にどないや」
あるご婦人らのところに行かれた司組長が髙山若頭に、ご婦人らと一緒に写真を撮ろうと声をかけた。髙山若頭は椅子に腰をかけたままで、一瞬「フッ」と笑ったかと思うとかぶりを振った。それを見た司組長は、苦笑いを浮かべ、自分だけでご婦人たちと写真を撮った。
あとからすぐにわかったことだが、そのご婦人は髙山若頭の奥さん。つまり姐さんであった。六代目山口組体制がスタートした頃、筆者はある人からこう言われたことがあった。
「なんで司の親分は、あえて自分の出身母体から髙山のカシラを選んだかわかるか? それは一番信頼しとるからや」
司組長と髙山若頭の絆は、どんなことがあっても崩れることはないだろう。
髙山若頭の残刑も1年7カ月となった。空前絶後の六代目山口組の分裂劇に、何か大きな動きがあるとしたら、その時かもしれない。
(文=沖田臥竜/作家)
●沖田臥竜(おきた・がりょう)
2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、『山口組分裂「六神抗」』365日の全内幕』(宝島社)などに寄稿。以降、テレビ、雑誌などで、山口組関連や反社会的勢力が関係したニュースなどのコメンテーターとして解説することも多い。著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任侠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)など。最新小説『忘れな草』が発売中。