山口組の冷徹な頭脳
今もなお、囁かれ続けていることがある。もしも六代目山口組の髙山清司若頭が社会にいれば、山口組の分裂は起きていなかったというものだ。確かに、髙山若頭たった一人がいたかいなかったかで、山口組が歩んだ道が大きく異なっていたと筆者も思う。
「山口組が分裂した……」
その報を耳にした時、我が耳を疑った。そして同時に、ある直参組長の言葉が脳裏に蘇っていた。
この組長と筆者は同じ小中学校の出身で、筆者にとって先輩にあたる。六代目山口組が分裂することになった2015年春、分裂の兆しなどがまったく感じとれないなかで組長と筆者は会食をしていた。杯が進み、そろそろお開きというところで、組長はこう口にしたのだ。
「髙山の若頭が収監中に山健組は立つで」
「えっ」と聞きかえす筆者に組長は、なおも続けた。
「どんな形かわからんが、山健組は必ず立つで」
それは何かを確信しているような言い方であった。髙山若頭はその前年の2014年5月に上告を取り下げられ、実刑が確定。この会話がなされた時は、すでに府中刑務所に服役中だった。
まさかあのとき組長は、そこから数カ月後に起きることとなる、六代目山口組の分裂のことを言っていたのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
たらればを論じるのは、いつの世も夢想でしかない。それでも口にするのは、髙山若頭がそれほどの影響力を持っているからであろう。
「髙山若頭が社会にいれば、六代目山口組の分裂はなかった」
分裂後、六代目山口組組員からそう言われ続けている髙山清司若頭。誰しもがそう口にするのは、単に絶大な支持があるというだけではない。
ときに冷酷に、ときに大胆に、髙山若頭は組織内に不満分子が芽生えると、その要因がたとえ山口組の功労者たちだったとしても、粛清の嵐を巻き起こし、組織内を締め付けてきた。それを「恐怖政治」と指摘する声もあったが、それでも髙山若頭が収監される以前は山口組が割れることがなかった。
なぜか。そこに一切の私利私欲がなかったからだ。以前、過去に髙山若頭のお世話を数年間経験したことがあるという人物に話を聞いたことがある。
「髙山若頭という親分は、それが組織のため、司親分のためと思えば、一切の私情を挟まない。ましてや世間の評判なんて頓着されない人だ。たとえ冷酷などと言われようが、妥協せずに物事をやり遂げることのできる人物。だからこそ司親分は髙山若頭の進言には必ず耳を傾けられていた」
六代目体制が発足し、山口組設立以来ともいえる、組長と若頭が同じ出身母体(名古屋を拠点とする弘道会)であることに、内部からは批判的な声が上がっていたのも事実だ。「これでは山口組が名古屋のものになってしまう」という声を筆者自身、何度も耳にしたことがあった。それが俗に“名古屋体制”といわれた所以だが、そうした声さえも髙山若頭の前では沈静化された。