場面を読む力
2005年、髙山若頭は3月に二代目弘道会会長に就任すると、4月には五代目山口組直参に昇格。8月には、六代目体制のスタートと同時に若頭へと就き、二次団体の若頭から半年もかからずに山口組のナンバー2へと駆け上がったことになる。
そのスピード出世を誰しもが称賛していたわけではないだろう。古参幹部らにはやっかみもあったと思う。しかし髙山若頭には、まったく気後れや遠慮がなかった。六代目山口組がスタートして間もない頃、こういう場面があったという。
五代目体制の時から、周囲からも大物組長として一目置かれ、誰に対しても遠慮することがなく、ズバズバと物を言い切ることができる幹部の親分がいた。その親分のことを数カ月前まで、髙山若頭は「叔父さん」と呼んでいたのだ。
だが若頭に就任すると、ある会合の後、その親分がとった態度に髙山若頭は烈火のごとく怒鳴り上げたという。その理由は、司組長に対する出送りの時の態度のまずさが原因であったと言われている。少しでも司組長に対して失礼にあたる言動があれば、髙山若頭はどんな大物親分にも気後れせずに冷徹になれるということが、この場面を通しても認識されたのではないだろうか。
徹底した情報管理体制の構築
組織運営において、情報管理が重要視される時代といわれるようになって久しいが、山口組内でいち早くそれを徹底し、組織を構築し直したのが弘道会であるといわれてきていた。六代目山口組の若頭へ就任した髙山若頭は、弘道会で構築した情報管理体制を六代目山口組の中にも即時に取り入れたのだ。
今回の髙山若頭の服役の原因となった恐喝事件では、髙山若頭が京都府警に逮捕された時、こんな通達が総本部から出された。
「末端組員に至るまで、本家若頭の逮捕についてあれこれ詮索したり、口にしたりしてはならない」
筆者はこのときまだ現役で、そんな通達をこれまで耳にしたことがなかった。それだけ異例の通達であった。現に当時、私が所属する組織でも、髙山若頭が逮捕されたことについては、まるでなかったことのように誰も口にしていなかった。もし軽はずみに雑談であれ、髙山若頭のことを口走り、それが捲れてしまえば、何か起きるのではないかと思わされるだけの緊張感が組織内には充満していたのだ。
現に髙山若頭の情報収集能力には定評があり、古参幹部であっても、上層部批判をすれば間髪入れずに山口組から追放してみせた。それは山口組の中でも恐怖政治と呼ばれ、髙山若頭収監後に六代目山口組を割って出た神戸山口組が痛烈に批判してきたものだ。
ただ司組長の社会不在中、そんな不満分子を抱えながらも、山口組を分裂させることなく髙山若頭が留守を守り抜いたのは事実だろう。
そうした実績から、多くの六代目山口組組員らが「髙山若頭が出所したら、この分裂劇をなんとかしてくれる」と期待を寄せているのだ。逆にいえば、髙山若頭の出所を神戸山口組や任侠山口組も意識しているともとれる。その証となったのが、任侠山口組・織田絆誠代表の「髙山若頭の出所後に会う用意がある」という発言だろう。
山口組若頭という肩書きの重さ
織田代表は、ジャーナリスト・溝口敦氏の著書『山口組三国志』の中で、「髙山若頭と会う用意がある」といった旨の発言をしている。伝え聞くところによると、府中刑務所の中でこのことを耳にしたという髙山若頭は激怒したと言われている。
その後、髙山若頭の織田代表に対する不信感は、一時は沈静化したのではないかと見られていたが、ここになって再燃したかのように、六代目山口組関係者の間に、ある噂が飛び交っているという。それについて、六代目山口組系幹部は吐き捨てるようにこう話す。