S氏は1980年代から100回以上、中国と日本を行き来していた。さらに北京には6年間滞在し、中国の大学で日本語を教えていた。教え子には今や中国政府内に勤務するスタッフも数多くいる。さらには小渕恵三元首相が発足させた日中緑化交流基金が進める中国奥地の砂漠緑化のための植林活動にも積極的に参加、日中友好の懸け橋役も担っていた。日本が第二次大戦中にアジア諸国を侵略したことを認め公式に謝罪した村山談話(1995年)を発表し、中国でも一目置かれる村山富市元首相とも近い仲だった。
S氏が拘束された当時、S氏の恩師で日中友好において大きな役割を果たしてきたA氏もこう語っていた。
「なぜだ。心配だ。彼もいろいろ動きすぎたのが原因か」
そしてS氏が拘束された最大の理由として中国人脈に触れ、こう漏らした。
「Sは拘束前から、中国で時の政権に敵対的な某氏との関係を取沙汰されていたことは気になっていた。でも、Sはそんな男ではない。それだけに拘束はショックだった。とにかく解放に向けて何かできないか」
A氏は日中友好関連では数百回にわたり訪中し、S氏は中国問題についてA氏の薫陶を受け、何かと相談をしてきた恩師である。そしてA氏は中国要人らにも覚えがめでたく、習主席や李首相とは若い頃から面識があったほどだ。しかし、こうしたA氏ら日中友好団体関係者らの動きもむなしくS氏やほかの日本人拘束者の解放どころか、その後の中国内の逮捕後の詳細は一切キャッチできない。
日本政府からの働きかけなし
4月の南北首脳会談で、北朝鮮の金委員長が韓国の文在寅大統領に「(日本人の拉致問題について)なぜ、日本は直接言ってこないのか」と語っていたことが、国内一部メディアの取材で明らかになった。金委員長は文大統領に「韓国やアメリカなど周辺が言ってきているが、日本政府からの働きかけはゼロ。なぜだ」と漏らしたという。
こうした日本の姿勢は、北朝鮮の拉致問題ばかりではなく、中国での拘束問題でも同じといえるだろう。S氏は拘束直前、周辺にこう漏らしていたという。
「つい最近、おふくろが亡くなった。そのおふくろも亡くなる前後まで、中国を往復する仕事を心配していた。僕も、そろそろ腰を落ち着け、安心させたかったが……」
S氏の拘束に対しさまざまな取り組みを行っていたA氏は昨秋、出張先で急逝。A氏は死の直前まで「あのバカ野郎」とS氏の今後に心を痛めていたという。S氏ばかりではない。今、中国に曖昧に拘束されている人たちの家族や友人らは、一様に心を痛めている。
安倍首相は今回、来日した李首相に尖閣問題とあわせ、中国による日本人拘束の問題を問いかけたが、暖簾に腕押し状態だったともいわれる。日本政府には、李首相の来日、米朝会談を最大の好機として、中国拘束者らの解放と北朝鮮拉致被害者の解放に政権の命運をかけるほどの真剣さで取り組むことを望みたい。
(文=田村建雄/ジャーナリスト)