野田市小4虐待死、「母もDV被害者ゆえに逮捕は不要」は誤り…法で裁かれるべき
第12回 2019年1月、千葉県野田市小4虐待死事件、両親の責任はいかに問われるべきか?
千葉県野田市で小学4年生の栗原心愛さん(10)が両親からの虐待によって2019年1月に自宅で死亡した事件。傷害の疑いで逮捕され、3月に傷害致死罪で起訴された父親の勇一郎容疑者(41)は、心愛さんに対して“しつけ”として日常的に暴行を加える、冷水のシャワーを浴びせる、十分な食事を与えないなどし、最終的に死に至らしめたとされています。前回の本連載「野田市小4虐待死、教育委員会のあり得ない大失態…悪質クレームには躊躇なく弁護士を」で触れたように、野田市教育委員会の不適切な対応が虐待をエスカレートさせてしまった可能性は否定できませんが、それにしても実の娘に対してなぜそこまで、というのが一般的な反応ではないでしょうか。
虐待は、養育者が継父母である場合に発生しやすい、という統計データがあります。それを裏づける事例は、最近に限っても、3月に神奈川県横浜市で、重度のやけどを負った長女(3)に治療を受けさせず自宅アパートに放置したとして実母(22)と同居の男(21)が逮捕された事件など、枚挙にいとまがない。虐待におけるそうした傾向は一般にもよく知られているだけに、実子と報じられている心愛さんに対する勇一郎容疑者の行為は、まさに鬼畜の所業として、社会に衝撃をもって受け止められたようです。
他方、勇一郎容疑者と同じく傷害容疑で逮捕され、2019年3月に傷害ほう助罪で起訴された母親のなぎさ容疑者(32)についていえば、世間一般の評価は割れている。「母親なら命に代えても子どもを守るべき」といった批判が多く見受けられる一方で、DV被害者を支援するNPO法人「全国女性シェルターネット」が「母親は保護されるべきDV被害者であり、逮捕されるべき容疑者ではない」との声明を出すなど、擁護する声も少なくありません。
では、犯罪学の立場から見たとき、今回の両親の行為とそれに対する司法の処遇はどのように評価されるのか。今回はそのあたりについて考察したいと思います。
「人当たりがよかった」父親はDV加害者の典型
まず、虐待を主導したとされる勇一郎容疑者の人格や行為について考えてみます。これまでに報道された情報をひとことでまとめると、彼に対する周囲の評判はすこぶるよい。「仕事熱心で常に笑顔を絶やさず、誰にでも敬語を使う」「非常に温厚で穏やかでコミュニケーション能力があり、職場の皆から慕われ頼られていた」「丁寧でしっかりした人で、虐待とは真逆のイメージ」など、家庭内での娘や妻に対する暴虐ぶりが信じられない、というほどの好印象を周囲に与えています。
しかしながら、こうしたパーソナリティは、犯罪学においてしばしば指摘されるように、DVの加害者にはむしろ非常によく見られる類型のひとつです。人当たりがよく、社会的信用もあるが、外でおとなしくしている分だけ、家庭ではいばり散らす。勇一郎容疑者はまさにそういうDV加害者の典型であるといえます。
加えて、これもよくいわれることですが、DV加害者は、幼少期に自分もしくは家族が虐待を受けているケースが多く、勇一郎容疑者もまたそうである可能性が高い。警察の取り調べに対し、彼は心愛さんへの虐待について、「しつけのつもりで、悪いことをしたとは思っていない」と供述していますが、おそらくそれは罪の意識を軽くするため意識的に強弁したのではなく、彼なりに本心から語った言葉ではないかと私は思う。彼自身が被虐待経験者なら、そのように暴力を容認する歪んだ価値観が幼少期に形成されていても不思議はないからです。逆に、被虐待経験者でなければ、実子に対してあれほど凄惨な虐待を加えるというのは、なかなかできないことだともいえます。
「母親はDV被害者だから逮捕は不要」は暴論
一方、なぎさ容疑者の行為については、どんなことがいえるでしょうか。心愛さんへの暴行には直接関与こそしなかったものの、虐待を黙認したことについて彼女は、「娘を守るべきだったが、娘が夫から暴行を受ければ自分は暴行されないで済むと思った」と供述しています。また実際、彼女は勇一郎容疑者から、殴られる、暴言を吐かれる、携帯電話の履歴をチェックされるなど、日常的にDVを受けており、その事実は沖縄県糸満市に住んでいた際、行政の把握するところとなっている。そうしたことからメディアやネットなどでは、先に触れた通り、「彼女もまた心愛さんと同じDV被害者であり、なればこそ逮捕されるべきではない」という主張が一定の支持を得ています。
しかし、法治国家の根幹をなす刑法とその運用の実際という視点から見れば、やはりその考え方は誤りであるといわなければならない。というのも、彼女が被害者の側面を持つからといって、虐待をほう助したという、加害者としての彼女の行為そのものが消えてなくなるわけではないからです。
もちろん、もしその加害行為が夫に強要されたものであるといった事実が認められるならば、検察官が訴追を判断する際に起訴猶予にするとか、裁判官が公判において情状を酌量して量刑を軽くするとかといったかたちで、刑法のシステムにのっとって考慮されることは十分にあり得ます。
しかし、というよりだからこそ、逮捕・起訴して裁判にかけるという刑法のシステムの俎上に載せる必要があるわけで、彼女は被害者なのだから罪はない、よってそもそも逮捕すること自体おかしい、不要である、ということにはならないのです。
それに、すでに千葉地検はなぎさ容疑者を傷害ほう助罪で起訴しましたが、やはり彼女には心愛さんを死に追いやった責任の一端はあると私も思う。もちろん、DVによって夫から精神的・肉体的に強い束縛を受けていた彼女が、その意に反した行動を取ることがきわめて困難だったのはわかります。そうした行動が夫に知られれば自分の命すら危ない、という恐怖もあったでしょう。それでもやはり、勇一郎容疑者は仕事で家を空ける時間帯があったわけですから、その間に心愛さんに食事を与えたり、誰かに助けを求めたりすることが絶対に不可能だった……とまではいえない。そういう意味において、彼女のやり方次第で助けられたケースであったということを、今後行われる裁判などを通し、誰よりも彼女自身に理解してもらいたいと思います。
社会復帰のための“みそぎ”としての逮捕・刑罰
さらにいうと、「なぎさ容疑者はDV被害者であり、逮捕されるべきでない」というのは、逮捕や刑罰という司法制度を、単なる“懲罰”としてしかみなしていない、非常に一面的な物言いです。今回のように、従属的な立場で虐待に加担してしまった加害者や、介護を苦に親を殺してしまった加害者などは、多くの場合、自分の行いを心から後悔するものです。そういうときには、短い刑期でもきちんと刑罰を受けさせ、精神的に落ち着くまで待ってから社会に復帰させるほうが、むしろ本人のためになる。
逆に、あなたは悪くないからと見逃され、家で一人ぼっちになってしまうと、自殺にまで至ってしまうようなケースさえ少なくない。逮捕や刑罰というものは、そのような最悪のケースの防止と本人の“みそぎ”のため、という側面をあわせ持っているわけです。
本当に“最悪な”ケースなのか
最後に、もうひとつつけ加えておきたいことがあります。それは、確かに今回のケースはきわめて痛ましく、尊い命が奪われてしまったという点では非常に凄惨な、悲しい事件ではあるものの、ならば犯罪史上まれに見るような、そういう最悪の虐待事件に分類されるのか……というと、必ずしもそうではないということです。なかなか報道には出てきませんが、世の中には、凄惨さという点では今回をも上回る、とうてい正視に耐えないような虐待の事例が少なからず存在するのです。
父親は働きもせず、博打と酒と薬物にどっぷり浸かり、子どもに対して日常的に近親相姦を含む暴力三昧、それに対して母親は、わが身を守るために見て見ぬふりをするのではなく、完全に無関心でただただ眺めている……。そういった類いの、あまりの悲惨さゆえに報道すらされずに闇に埋もれてしまうような事案も、毎年一定数発生している。逆にいえば、そういう意味で“最悪”とまではいえないとみなせるような今回の事件は、対応マニュアルや人員が整ってさえいればなんとか助けられたかもしれない、残念でならないケースでもあるのです。
(構成=松島 拡)