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令和への改元と「恩赦」

文=深笛義也/ライター
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 しかしながら恩赦の対象となったのは軽犯罪ばかりで、服役囚には無縁だった。だが見沢は、即位恩赦があると信じて、各所に請願書を出し始める。法務省恩赦課を皮切りに、同矯正局、保護局、内閣法制局、内閣官房、日弁連、宮内庁、法務大臣、衆議院法務委員会、検察庁、総理府などに、過去の恩赦例、天皇と恩赦の歴史的関係、外国の恩赦事情、恩赦法の解釈、日本の歴史における哲学的意義や政治的意味などを盛り込み各30~40枚を出したのだ。

 恩赦は実現せず、見沢は平成6年に満期出所した。『囚人狂時代』(新潮文庫)、『母と息子の囚人狂時代』(新潮文庫)、『調律の帝国』(新潮文庫)などを上梓しするが、2005年、8階にあった自宅マンションから身を投げて自死を遂げた。

夕張保険金殺人事件

 夕張保険金殺人事件の、日高安政、日高信子の夫婦も恩赦に望みをいだいた。日高夫婦はサラ金や雑貨店などを経営していたが、主な収入源は夕張炭鉱に労働者を送り込む「日高工業」だった。白亜の豪邸を建て、1000万円もするリンカーン・コンチネンタルを乗り回し、競馬にも金をつぎ込んだので、収入が支出に追いつかなかった。

 彼らが思いついたのは、労働者たちに生命保険をかけて寮を火事にするという、悪逆非道の計画であった。手下を使った犯行で、昭和59年5月5日、夕張市鹿島栄町の木造モルタル3階建ての寮は燃え上がった。労働者4人と子ども2人が死亡、消防士1人も殉職する惨事となった。夫婦は労働者の生命保険金1億3800万円を手にした。

 手下が警察に自首し自供。日高夫婦は逮捕され、昭和62年3月9日、札幌地裁で死刑判決が下された。夫婦は控訴していたが、昭和天皇の容態悪化の報道が相次ぐ昭和63年秋、控訴を取り下げる。恩赦を受けるためには刑が確定していなければならない。彼らは自ら望んで確定死刑囚になったのだ。

 恩赦がなかったため、安政は「取り下げは昭和天皇の死去で恩赦があると勘違いしたため」として、最高裁に審理再開申し立ての特別抗告を行ったが、平成9年6月棄却された。信子は審理再開を求めなかった。

 平成9年8月1日、札幌拘置所において日高夫婦への死刑が執行された。特別抗告の棄却からわずか2カ月での処刑に、「審理再開を求めたことに対する懲罰的な意味を感じる」と安政の弁護士は語った。控訴の取り下げをしていなければ、もっと生きながらえていたことは間違いない。

 平成への改元で恩赦の対象になった者は1200万人以上に上ったが、選挙違反や交通違反など軽微な罪に留まり、塀の中にいる者は対象にならなかった。天皇が神であった戦前とは違い、改元だからといって、長い審理を経て法廷で得られた判決を覆すことは大きな批判を呼ぶのは明らかだ。

 インターネットもなく聞けるラジオも限られている塀の中だが、そうした情報にはさとい。令和への改元に関しては、獄中での恩赦騒ぎはなく、いつもの時間が流れているようだ。
(文=深笛義也/ライター)

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