織田信長、天下統治の秘密は茶道具の価値変革…ナイキやゴディバ等の経営戦略の先駆け
信長のレピュテーション・マネジメント
織田信長(1534-82)といえば、よく知られた戦国武将のひとりであり、豊臣秀吉・徳川家康と並び「三英傑」として称されています。室町幕府を事実上打倒し、秀吉と家康に続く天下統一への道を開き、道半ばにして明智光秀による本能寺の変で自死を遂げたその流転に満ちた人生行路もよく知られています。
一般に流布された信長のイメージといえば、群雄割拠する時代に出現した「革命児」「破壊者」あるいは「天下取りの野望に満ちた武将」というものです。一方では一向一揆や比叡山に対して行った残酷無比な「殺戮者」としてのイメージもあります。こうした捉え方が必ずしも間違っているというわけではありません。しかし、近年の歴史学の研究では、従来のイメージとは異なった側面にスポットが当てられるようになりました。
そのひとつに、信長はみだりに秩序に挑戦したわけではなく、「世間」の思惑を気にしていた事実があります。信長は当時対立していた将軍・足利義昭と1573年に衝突して武力で彼を追い詰めたとき、殺害することもできました。しかし、信長は義昭を追放にとどめました。これは、将軍を殺害することへの「天下」の批判を避けようとしたからだと考えられています。
また、信長は「天下」「世間」「外聞」という語をよく用いました。義昭を攻めるときにも、朝廷や京都の世論を気にしていたのです。また、秩序への反逆者というイメージとは逆に、信長は、諸大名と評議を行い、その意向を重視して大名たちとの共存を目指していたという信長自身の手紙も残されています(1573年、毛利輝元に送った書状)。また信長は「天下統一」を目指していたわけではなく、むしろ義昭から任されて天下静謐を維持する役割をある時までは自覚していたという指摘もあります。
興味深いことは、信長は現代でいう「レピュテーション・マネジメント」、つまり評判をマネジメントすることに気を使っていたことです。信長は、一方では大胆に戦国の時代を武功によって主導しながら、同時に当時の武家社会の秩序に注意して、どのように自分が見えているか、「セルフ・ブランディング」を通じて、武士政治をマネジメントしようとしていたといえるでしょう。