織田信長、天下統治の秘密は茶道具の価値変革…ナイキやゴディバ等の経営戦略の先駆け
信長は、商人や家臣など限られた参加者を集めて茶会を催し、自分が所有する200点にも及ぶ茶道具を見せつけています。こうすることによって、自身の権勢を示し、茶の湯が武家の儀礼であることを促進しました。
そして、茶道具を下賜することで、それまでの刀剣や武具と同等の価値を茶道具に与えました。信長が43歳のとき、安土城普請に功のあった丹羽長秀に「珠光茶碗」を与えたのが最初と考えられています。家臣たちは、こうした茶道具による下賜に喜びを感じ、茶会を開くことを信長から許可されることを大きな名誉として感じるようになったのです。
よく語られるエピソードがあります。それは滝川一益(たきがわ・かずます)のことです。信長の有力な家臣であった一益は1582年、3月に武田家を滅亡させた褒美として、上野一国と信濃二郡を与えられます。滝川にはこのとき、「関東管領」(かんとうかんれい)という関東の大名の統轄と、奥羽の群雄を従属させる役割も与えられています。
このとき、一益は信長に名物の「なすび」茶入れを所望するつもりだったのです。しかし、彼はその機会を失ってしまい、信長から所領と地位を与えられてしまいます。このとき、一益は「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」(こんな遠方の国にとどめられてしまい、茶の湯の楽しみももう終わりだ)と嘆いて手紙に記しています。
つまり、このころには、殿様から家臣に与えられる所領の価値よりも茶道具のほうが、価値がより高いと考えられるようになっていたのです。
マーケティングの価値転換
このような信長の価値転換戦略には、次のような2つの見るべきポイントがあります。
(1)異なる価値体系からの価値導入
(2)贈与行動での価値転換
この2つの点について、今日私たちが学ぶべき点を考察してみたいと思います。
まず、(1)の異なる価値体系からの価値導入とは、どういうことでしょうか。
信長は、上流階級である足利将軍家や茶人たちの行ってきた茶道を取り入れて、下層からのしあがってきた武士階級を「文明化」しようとしました。このように新しい価値を導入しようと思えば、まず異なった価値をもった階層やグループから価値を取り入れる必要があるのです。