織田信長、天下統治の秘密は茶道具の価値変革…ナイキやゴディバ等の経営戦略の先駆け
信長の価値転換
ここで取り上げたいのは、信長の文化的革新者としての側面です。信長は「茶の湯」を愛し、「茶人」として茶会を主催し、茶道具を部下である武将に武勲の褒美として贈りました。つまり、彼は茶道というものの価値を武家社会に積極的に広めたのです。
戦国時代当時の武将たちは、なぜ主君のために命をかけて勇敢に戦ったのでしょうか。それは、武勲を立てた褒章として領地や位階を主君からもらうためでした。信長が行った文化改革とは、こうした領地や位階中心の武士の価値観を、茶道具の高い価値に転換させたことです。
こうした価値転換は、どのようにして可能だったのでしょうか。順を追って考察してみましょう。
当時の茶道は、僧侶・村田珠光(むらた・じゅこう/1422?-1502)によって開始された「侘び茶」が主流になっていたころでした。珠光以前の将軍家や大名が執り行っていた「唐物」、中国からのぜいたくな輸入品である茶道具を使った華美な茶道は影をひそめました。珠光は、能や連歌、禅宗の影響を受けた素朴な茶器を用いた茶道の開祖であったのです。
珠光の教えはのちに富裕層に受け継がれ、皮肉なことに、素朴であるはずの茶器が高い価格で戦国武将の間で取引されるようになりました。千利休(1522-91)はこうした「侘び茶」の道を引き継ぎ、茶の湯の最盛期をもたらしました。利休は信長に茶頭として仕えたのち、秀吉にも仕えましたが、最後には秀吉と衝突し切腹を命じられたことはよく知られています。茶道はもともとそれ自体が政治的な機能ももっていたのです。
信長の価値観変革行動
それでは、なぜ信長は文化的な改革者として考えられるのでしょうか。それを知るためには信長の茶道に関する行動を見ていく必要があります。
江口浩三氏の指摘によれば、信長は茶道に関して、次の3つのサイクルで行動を行うことで、武士にとっての茶道具の価値観を変えていきました。
(1)収集:名物茶道具を収集したこと(名物狩り)
(2)披露:茶会で信長が名物茶道具を入手したことを披露したこと
(3)下賜:功績があった家臣に名物茶道具を与えたこと
1569年、信長が36歳のときに上洛を果たし、独立を保っていた堺を支配下におさめ、この年初めての「名物狩り」を行っています。名物狩りとは、商人や寺院が所有していた美術工芸品として価値の高い絵画や茶道具などの名品を、半ば強制的に買収することです。例えば、このとき信長は唐物(中国からの輸入品)である「富士茄子」、富士山にちなんで名づけられた、京野菜の「なすび」に似た形の茶入れを入手しています。