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富岡製糸場の世界遺産登録、ある企業がもたらした“奇跡” 操業停止後も巨額費用で保存

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富岡製糸場(「Wikipedia」より/Hasec)
 2014年6月21日、富岡製糸場(群馬県富岡市)が世界文化遺産に登録され、1987年の操業停止から2003年まで18年間に及び製糸場を守り続けた片倉工業が改めて脚光を浴びた。それも影響したかは定かではないが、同社の株価は7月29日、年初来高値の1400円をつけ、年初来安値の1023円(2月17日)から36.8%、377円上昇した。

 13年12月期の賃貸等不動産残高246億3100万円に対し時価は1117億6200万円。その差額871億3100万円が「含み益」だ。老舗企業だけに保有する土地の時価は簿価の4.5倍と大きい。土地を活用して、さいたま新都心駅前社有地の第二期開発としてショッピングセンターを建築中で、総投資額は155億円。15年春に完成予定だ。日本最大の製糸会社だった片倉工業は現在、繊維事業、医薬品事業、機械関連事業、不動産事業など幅広く手掛けるが、不動産事業の比重が大きい。

●富岡製糸場を彩る経済界の大物たち

 富岡製糸場は明治5(1872)年、明治政府が近代化政策のもと、主要製品である生糸の品質向上を目指して設立した日本最初の官営模範製糸工場である。明治政府が雇ったフランス人技師ポール・ブリュナが、武蔵・上野(こうづけ)・信濃を調査し、現在の群馬県、上野の富岡に場所を決定した。

 綿糸器などはフランスから輸入されたが、石や木材などは群馬県内から調達し、レンガはブリュナの指導のもとで日本の瓦職人が製造した。全国から集められた工女はフランス人技術者から器械製糸技術を学び、故郷に戻った後、各地に設立された製糸工場で指導者になった。当時の日本人職工の平均年俸74円に比べ、ブリュナの年俸は9000円と高額だったことが話題となったことなどを受け、75年末に契約満了でブリュナが去り、富岡製糸場から外国人技術者が消えた。

 日本人のみの経営となり、初代場長(所長)の尾高惇忠(あつただ)が経営に当たった。尾高は若い時、水戸へ行き徳川斉昭の謦咳に接し水戸学に強く感化され、現在の深谷市で私塾を開き論語を教えた。その教え子が10歳年下の渋沢栄一で、渋沢は尾高の妹と結婚した。会社を500社以上つくり「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢は晩年、「蘭香(尾高の号)の悲憤慷慨がなかったら、私は一生百姓で終わったかもしれない」と語っている。

 尾高は明治維新後、大蔵省製糸場の計画を担当して富岡製糸場の建設・経営に尽力した。だが尾高の大胆な繭の思惑買いが政府と対立する原因になり、76年末に場長を退き、渋沢が設立した第一国立銀行仙台支店支配人に転じた。

 器械製糸の普及と技術者育成という目的を果たしたため、富岡製糸場は官営工場の払い下げの主旨により、1893年に三井家に払い下げられた。三井は中上川彦次郎が経営していた時代。三井銀行の経営危機に際して大物政治家・井上馨の要請を受けた福沢諭吉が推薦したのが甥の中上川だった。中上川は三井銀行の不良債権を処理、王子製紙・鐘淵紡績・芝浦製作所・富岡製糸場などを傘下に置いて三井財閥の工業化を推進した。

 中上川の「工業化路線」は三井物産を創業した益田孝の「商業化路線」に取って代わられた。三井家は1902年、富岡製糸場を原富太郎の原合名に譲渡した。原富太郎は横浜市を本拠地として絹の貿易で富を築き、日本の5大生糸輸出業者と呼ばれた。美術界の経済的支援者としても有名であり、岡倉天心の依頼によって、日本美術の再興のために横山大観、下村観山、小林古径(こけい)、前田青邨(せいそん)、安田靫彦(ゆきひこ)、そして彫刻の平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)など若手芸術家を援助した。芥川龍之介、夏目漱石とも交遊があった。横浜市本牧に三渓園をつくり、全国の古建築の建物を移築した。三渓園は戦後、原家から横浜市に譲られ一般公開されている。