トランプ米大統領は、選挙期間中に繰り返していた日本への厳しい言動を、最近また始めている。その論法は、四半世紀前にアメリカで起こった「日本叩き」のベースとなった状況認識と、レトリックそのままだ。
40歳以下の日本のビジネスパーソンにはリアル感がないだろうが、1990年前後のアメリカによる「日本叩き」をビジネスの現場やアメリカの田舎町で経験した私には、なんともおぞましい記憶がよみがえる。今後の最悪のシナリオの一つとして心構えをするためにも、当時の雰囲気を伝えたい。
貿易摩擦協定の忌まわしさ
90年前後の日米半導体摩擦への対応は、悲惨なものだった。87年に米国は日米半導体協定の不履行を理由として、日本製パソコンなど3品目に報復関税を課した。その後、日本市場に占める外国系半導体のシェアを92年末までに20%以上にするという「数値目標」が定められた。
「努力ではなくて結果が重要」ということで、電子機器業界全体で、ひたすらその20%という数値目標を追求させられた。電子ゲームメーカー幹部は、毎週日本の官僚と面談し、外国の半導体を何個、どれだけの金額を輸入したかを報告し、目標に達していないとこってりとしぼられた。官僚は「パソコンや半導体が輸出できなくなると日本経済は困りますが、おもちゃの1つや2つ全面輸出停止になっても困らないんですよね」と言った。
もちろん半導体メーカーも、より強いプレッシャーを受けた。台湾メーカーに手取り足取り技術サポートをして、自社製より高い値段で悪い品質の製品を、納期が遅れてもひたすら頭を下げて買うしかなかった。その部品を使うかどうか、売れるかどうかとは無関係に、とにかく割り当てられた数量を計画通りに必死で買う。
旧ソビエト連邦の計画経済とはこういうものか、と思わせるものだ。なるほど、これでは需要の変化や嗜好に対して機敏に対応できず、旧ソ連で右足だけの靴が大量に生産されたりしたのもむべなるかな、と妙に納得したものだ。
こんな技術進歩や人々のニーズと無関係のことをやり続けると、技術者の士気低下は甚だしい。半導体メーカーの経営幹部も社員の消耗をみて、「ヘリコプターでもなんでもいいから、とにかくアメリカ製の別のものを自社で買ったほうがましではないか」と真剣に議論した。この数値目標は、現場の実感としてなんのためにやっているのかわからない、とても忌まわしい作業だった。