私はマンションの資産価値について、あれこれと評価することを職業としている。東京23区と川崎市の大半で、新築マンションの建設現場をほとんど見ている。
それぞれ、エリアごとに大きな特徴がある。世田谷区は幹線道路から離れて奥まったところは、やたらと道路が狭かったりする。たぶん、昔のあぜ道をそのまま公道にしたのだろう。それに比べて、江東区の深川エリアでは道路がわりあいにゆったりつくられている。第二次世界大戦のときにアメリカ軍の空襲で焼け野原となったので、その後の区画整理で道路を広く確保できたのではないかと、勝手に想像している。
川崎市の北部や練馬区も街並みが伸びやかだ。ともに起伏が多いので、もともと稲作には不向き。山林や畑だったところを住宅地に転換したので、街区形成にも余裕があったのだと思う。
東京という街は、徳川家康が江戸に入府するまではただの野原か山林だった。隅田川がよく氾濫したので、そこに定着して田畑を耕す者も少なかったのだろう。今はビルやマンションだらけで地形がわかりにくいが、結構起伏がある。特に港区や文京区などは坂が多い。
家康は江戸に入府すると、まずは隅田川の水害対策に取り組んだ。その流れを一部分離して、今の荒川を掘削したのだ。完成は家康の死後数十年後。しかし、荒川ができたことで、水害への懸念はかなり緩和された。
江戸城が築かれ、町民の住む街区も形成された。今の日本橋から銀座にかけては、江戸時代の町割りがそのまま街区形成されている。基本は碁盤の目。大阪の街も、中心エリアは京都に似せた碁盤の目になっている。その京都は8世紀に唐の都・長安を模した碁盤の目で街区を形成した。こうした街づくりは、日本の歴史における都市計画の元祖といえる。
日本という国は明治維新と第二次世界大戦という2つの大きな節目を経て、都市のあり方が大きく変わっている。特に先の大戦後の日本は民間主導の経済大国へと発展する過程を経験した。敗戦時の人口は約7200万人。それが2008年には約1億2800万人まで増えた。当然、その需要を満たす住まいが必要である。それは既存の街区のなかだけでは賄えないので、新しい街がどんどんつくられた。代表的なのは、多摩ニュータウンや千里ニュータウンである。