「止められないからNG」(裁判所)だった原発は、なぜつくられた?
ひとたび事故が起きれば、旅客機は約500人の人間を、電車も100人オーダで、一気に大量の人間を殺します。今でも、年間5000人が交通事故で死亡しています。これは、2時間弱で1人、1日で約14人が、交通事故で殺されていることになります。「原発を全面的に廃止すべきだ」という主張はよく聞きますが、「自動車をすべて廃止すべきだ」というスローガンは、まだ聞いたことがありません。
広島、長崎の原爆は、30万人を超える人間を殺害しましたが【註5】、原発事故との間で因果関係が自明となっている死亡事故というのは、極めて少ないです【註6】。
そして、我々は、原発、旅客機、電車、自動車に、同じ言葉「安全」を使っていますが、どうも、その意味は全部異なるように思われます。加えて、「工学的アプローチから規定される安全」は、これらとは異なる、さらにもう一段階、次元の異なるものとなっているのです。
●単に事故が起きない状態にすればよい?
「心が安らかな状態の安全」を「絶対的」な意味で実現する方法は、とっても簡単です。原発を「全部止める」。旅客機、電車、自動車に至っては「絶対に使わない」。これで十分です。単に事故が起きない状態にすればよいのです。
しかし、これらはいくらなんでも極論です。「原発を止める」のほうは代替エネルギーと併せて検討する余地がありますが、公共の輸送サービスの享受が受けられない社会では、とても文化的な生活が送れるとは思えません。また、これらのサービスをすべて拒否する人、というのも想定しにくいです。
では、「絶対的」と言わないまでも、「準絶対的」な実現方法についてはどうでしょうか?
第1の手段は、「すぐ止めてしまう」です。極端なことを言えば、台風が「南シナ海」で発生した時点で、 すべての電車を止めてしまえば 事故は発生しようがありません。また、雨が降れば無条件に高速道路を封鎖してしまえば、スリップ事故を発生させようがありません。
第2の手段は、「徹底的な安全対策」です。例えば、電車の座席を全指定とし、ジェットコースターのような安全器具装着に加えて、エアバッグ搭載。電車の出発確認に10分を費やし、時速10km以下で移動。閉塞区間(2つの列車が同時に入れない区間)の距離を現状の10倍にすれば十分でしょう。
しかし、これらの手段も現実には採用できません。輸送能力が担保できず、不便で、経済活動を著しく阻害します。また、コストも滅茶苦茶に高くなるでしょう。隣駅までの切符代が1000円になり、1カ月の電気料金が20万円になり、実家に帰省するための飛行機のチケット代が100万円になる、という事態になるかもしれません。
「心が安らかな状態の安全」を、「絶対的」または「準絶対的」に実現することは大変難しいのです。そのような「安全」の概念を、現実社会に適用したら、ありとあらゆる公共サービスは、全部成立しなくなるからです。
●工学的アプローチから規定される安全
そこで登場するのが、「工学的アプローチから規定される安全」の考え方です。
この考え方には、色々あるのですが、今回は2つの考え方、ALARA(アララ)とSIL(シル)についてご紹介したいと思います。
簡単に言うと、両者とも「安全」に対して公共性や経済性の考え方を導入したものであり、極論すれば「人を殺すことを前提とした安全」という概念であると言って良いかと思います。
「人を殺すことを前提とした安全」とは、形容矛盾であり、とんでもない非人道的な考え方と思われるかもしれません。しかし、この考え方こそが、現在の原発、飛行機、電車、自動車、その他の、すべての公共サービスの制御システムの品質を規定する根幹の考え方なのです。
では、まずALARAからご説明致します。
ALARAの原則とは、「AS Low As Reasonable Achievable」の略で、「合理的に可能な限り低く」の意味で、特に原発関係では「被ばく量の低減」の意味で使われることが多いです。
問題は、この「Reasonable=合理的」の解釈です。それには、諸説あるようですが、概ね3つの要素で形成されているように思います。