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三池純正「歴史はこんなに面白い!」

工事現場で、人間の頭蓋骨と巨大な“馬”を発掘!なんとあの大物戦国武将だった?

文=三池純正/歴史研究家
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工事現場で、人間の頭蓋骨と巨大な“馬”を発掘!なんとあの大物戦国武将だった?の画像1大阪城天守閣(「Wikipedia」より/Midori)
 今から35年前のことである。

 昭和55(1980)年、大阪追手門学院の校舎建て替え工事に伴う発掘現場で、成人男子と思われる一個の頭蓋骨が発見された。この頭蓋骨が現代人のものだとしたら、死体遺棄、殺人などの事件に発展したかもしれないが、観察したところ、頭蓋骨はかなりの年代を経ていると思われ、関係者は一様にほっと胸をなでおろした。

 頭蓋骨が出土したのは大阪城西側の京橋袂、ちょうど外堀の北側に位置するところである。ここは、かつて豊臣時代の大坂城二の丸京橋口を囲む郭があったと推定されている場所であった。現在、我々が見る大阪城は元和元(1615)年の大坂夏の陣の後に徳川家が再建したもので、豊臣秀吉の築いた大坂城とはまったく別の城である。

 豊臣時代の大坂城は大坂夏の陣で灰燼に帰し、徳川家はその跡に7メートルほどの大規模な盛土をし、造成した地面の上に新しく別の城を築いた。徳川家によって築かれた大坂城は堀の幅も石垣の高さも豊臣時代のほぼ2倍の規模で、石垣を構成する一つひとつの石にまで、豊臣時代と異なる美しく粒揃いの花崗岩の大石を加工して形を整えたものを用いていた。

 さらには、城のシンボルである天守閣も豊臣時代の2倍の大きさで築かれ、江戸城、名古屋城と並ぶ巨大天守閣であった。徳川家は秀吉が築いた城よりもさらに立派で見栄えのする城を築き、天下にその威信をみせつけたといってよい。

貴人の首?

 さて、問題の頭蓋骨はその豊臣時代の大坂城二の丸京橋口前面の郭があった地層から見つかった。ただ、ここは夏の陣で豊臣軍と徳川軍との間で激戦が繰り広げられており、頭蓋骨の一つや二つ出土してもなんら不自然ではない場所であった。むしろ、大量の骨が出てきても不思議ではない。

 しかし、当時は戦が終わると戦死者の死体はきれいに片づけられ、塚などを作って葬られるか、身分が高く名前がはっきりしている武士や女性などは相応の寺に葬られるのが一般的であった。そう考えると、ここでみつかった頭蓋骨は、たまたまそれにもれた兵士か武士のものであった可能性がある。

 だが、その頭蓋骨は明らかに人の手で丁寧に埋葬されたと推定されるいくつかの特徴を持っていた。頭蓋骨の見つかった穴はほぼ1メートル四方にきちんと切ってあり、そこからは同時に倒れた石柱も見つかっていた。石柱には文字こそ刻まれてはいなかったが、それは墓標とする目的で立てられたものに違いなかった。

 そして、頭蓋骨が埋葬されていた穴の底面には一面に貝、それも貝殻ではなく、当時はちゃんと身の入った貝が敷き詰められていたことがわかった。これについては、供物を兼ねたか、もしくは浄めの意味を込めたものであろうと推定された。

 さらには、その周辺からは織部焼と唐津焼の皿も発見され、これは副葬品と推定された。織部焼と唐津焼はともに当時としては大変高級な陶器であり、一般の人が簡単に手にできるようなものではないという。以上の状況から、この頭蓋骨の主はかなりの身分を持った人物であると推定された。

 頭蓋骨は親不知(おやしらず)の歯が全部生え揃っていることから、この人物は20~25歳くらいの若者で、しかもその歯はすり減ってはおらず、歯並びもよかった。そこから、この人物は小さい頃から歯の手入れを行える環境にあり、食も雑食ではなく美食であったものと思われた。また、骨がしっかりしていることから、栄養状態もよく、当時の一般庶民ではないことが考えられた。

 以上から、この頭蓋骨の人物は「20~25歳の育ちのよい若者」という結論に達した。

謎の大型馬

 しかし、出土したのは、頭蓋骨だけではなかった。石柱のそばの穴からは、一体の大きな骨格をもったの骨が見つかったのであった。この馬もわざわざ穴を掘り、しかも草を敷き詰めた上に丁寧に埋葬してあった。当時の戦においては、馬も重要な乗り物であるため、戦場跡からその骨が出てきたからといっても不自然ではない。

 ただ、首と馬がそれぞれ近くに埋葬されていたことは、この人物と馬との深い関係を暗示しているとも取れる。この馬は頭蓋骨の人物の愛馬で、それゆえ近くに葬られたのではないかとも考えられるのである。ちなみに、当時の馬というのはほとんどが蒙古系であり、秋田馬や三春馬などのようにポニーくらいの大きさしかなく、徳川2代将軍徳川秀忠が所有していた馬でさえも高さは160センチメートルに満たないものであったことがわかっている。

 しかし、出土した馬はその骨格から、まさに当時としては異例なほどの大型で、高さが170センチメートルはあるアラブ系の馬と推定された。当時、これだけ大きな馬は大変珍しかったはずで、そうであればなんらかの記録に残っている可能性は高いと考えられる。と同時に、この馬を愛馬としていたのなら、それに乗る人物もそれに見合う大きな体格をもっていたはずであろう。

 以上の事実から、この頭蓋骨の人物は「20~25歳の高貴な育ちの若者で、大きな体格を持ち、しかも当時としては珍しい大型の馬を所有し、それを乗りこなしていた」と推定された。

首の主は豊臣秀頼?

 果たして、豊臣時代の大坂城内にそんな特徴をもった人物はいたのであろうか。

 実は、それに該当すると思われる人物がたったひとりだけいる。それは、豊臣秀吉の嫡子で大坂城主の豊臣秀頼である。秀頼は当時の記録から、身長が180センチメートル近くもある当時としてはかなりの大男で、太って体格もよかったことがわかっている。しかも、秀頼は「太平楽」という名の当時としてはかなりの大型の名馬に乗っていたこともわかっている。

 そして、秀頼が大阪夏の陣で大坂城内にて自刃したときの年齢は23歳であった。城内山里丸の朱三櫓の中で母淀殿や30人ともいわれる側近の武士や女中たちと共に果て、しかも大坂城は炎上し、遺体も焼けてしまったとされている。焼け跡からは多くの焼死体が発見されていたが、どれも性別も判別できないほど損傷がひどかったという。

 本能寺の変でも、織田信長の遺体が発見されなかったように、大坂城でも秀頼と明確に確定できる遺体は見つからなかったのである。『大坂御陣覚書』にも「建物は残らず焼失し、秀頼公の御死骸と思われるものは判明できない」とある。

 ただ、同じく大坂の陣について記した『難波軍実録』には、「その焼け跡にはいくつかの焼死体があったが、そこに首のない遺体があり、その傍らに『吉光』の銘の入った刀が置いてあった」と記されている。

 この「吉光」の名刀は秀吉がかつて秀頼に贈ったものであることから、その首のない遺体は秀頼と断定されたというのである。これが事実なら、秀頼と断定された焼死体には首がなかったことになる。当時、敵に大将の首を取られることは恥辱とされたため、秀頼自刃後、豊臣方の何者かがその首を持ち去ってどこかに隠した可能性はある。そう考えると、旧城内で発見され丁寧に埋葬された首は、秀頼のものであった可能性は否定できない。

 ただ、秀頼の首を現場から持ち出したのはいったい誰なのか、なぜそれを埋めた場所が二の丸京橋口前の郭であったのか、さらには合戦の混乱の最中、馬まで埋める余裕はあったのか、などまだまだ解明しなければならない謎は残っている。

 だが、この頭蓋骨が秀頼の首と考えられるにはそれなりの状況証拠があったといえる。もしできることなら、現代の最新の技術をもって、その頭蓋骨から顔を復元してみてはどうだろう。そうすれば、その顔の主から人物が特定できることになるかもしれない。

 ちなみにこの頭蓋骨は「秀頼の首」と判断され、その後、豊臣家ゆかりの京都清涼寺に首塚が築かれ、今はそこに丁寧に埋葬されているという。
(文=三池純正/歴史研究家)

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