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異質な銀行:スルガ銀行の危機…「かぼちゃの馬車」向け融資を独占

文=有森隆/ジャーナリスト
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異質な銀行:スルガ銀行の危機…「かぼちゃの馬車」向け融資を独占の画像1スルガ銀行本店(「Wikipedia」より/Kamonegi101.3)

 不動産会社スマートデイズが運営しているシェアハウス「かぼちゃの馬車」のオーナーが、危機に瀕している。スマートデイズが管理する総部屋数は1万室を超えるとみられ、オーナーが銀行ローンを組んでハウスを保有し、スマートデイズが家賃を保証する仕組み。8%という高い投資利回りに釣られてオーナーになった人の多くは一般の会社員で、そのオーナーに独占的に融資しているのがスルガ銀行だ。

 スマートデイズは今年1月、オーナーへの賃貸料の支払いを停止した。このため、銀行への融資の返済ができずに、破綻に追い込まれるオーナーが続出する懸念が高まった。一方、スルガ銀行も貸し倒れにより多額の不良債権が発生する懸念が浮上している。すでに金融庁は、スルガ銀行に対して銀行法に基づく報告徴求命令を出している。また、オーナーらで構成する「スマートデイズ被害者の会」は、スルガ銀行に対し集団訴訟を検討中だという。

同族経営を守り続ける稀有な銀行

 筆者は、『創業家物語』(講談社)でスルガ銀行を取り上げている。

 2007年10月、郵政民営化に伴い、ゆうちょ銀行が発足した。親会社の日本郵政社長の西川善文は地方銀行に住宅ローンでの提携を呼びかけた。ゆうちょ銀行が代理店となって地銀の住宅ローンを委託販売する見返りに、住宅ローンのノウハウを教えてほしいという内容だった。地銀各行は投資信託の販売でゆうちょ銀行の強力な販売力を見せつけられていた。住宅ローンのノウハウを手に入れれば、いずれ自前で住宅ローンを手掛けることになる。全国地方銀行協会は内々に「ゆうちょ銀行と住宅ローン提携はしない」と申し合わせていた。

 唯一、オファーに応じたのがスルガ銀行。地銀協の申し合わせは機関決定ではないから、「スルガ銀行が抜け駆けした」とは口が裂けても言えない。当時の岡野光喜社長(スルガ銀行は頭取とは呼ばず社長)は「確信犯的な抜け駆けをした」(有力地銀の頭取)といわれた。決断の速さで知られるスルガ銀行は創立以来、2016年に米山明広が社長に就任するまで、同族経営を守り続ける稀有な銀行だった。

 スルガ銀行の創業者は岡野喜太郎、2代目頭取は岡野豪夫、3代目頭取は岡野喜一郎、4代目が岡野喜久麿・そして5代目のトップに立ったのが岡野光喜である。岡野光喜の代になって頭取ではなく社長に呼称が変わった。岡野光喜が社長で弟の岡野喜之助が副社長だった。

 根方銀行→駿東実業銀行→駿河銀行→スルガ銀行と商号は変更されている。2008年から、勤続年数が短い会社員や、派遣の仕事をしている独身女性など、それまで金融機関が二の足を踏んでいたハイリスク層向けの住宅ローンで、ゆうちょ銀行とスルガ銀行は提携した。

 スルガ銀行のロケーションは横浜銀行、静岡銀行というビッグ地銀に挟まれている。生き残るためには独自の営業戦略が必要になる。「ゆうちょ銀の50店舗(当時)と郵便局の窓口を使えば全国展開することができる」と光喜は判断した。スルガ銀行は岡野家の銀行だ。光喜の曾祖父にあたる岡野喜太郎が1887(明治20)年に静岡県駿東郡(現・沼津市)で結成した貯蓄組合「共同社」がスルガ銀行のルーツだ。1895(明治28)年に根方銀行を創立して以来、光喜に至る5代の頭取・社長は岡野一族から出ていた。頭取の肩書きを社長に変えたのは5代目の光喜。「普通の会社は社長なのに、どうして銀行だけ違うの?と子供に聞かれても返答に困る。銀行はサービス業なのだから社長でいい」と即決した。

 スルガ銀行には静岡県のトップ行・静岡銀行の存在が重くのしかかる。戦時中の統制下に、当局から再三にわたり静岡銀行に統合すべし、との強い勧奨があった。当時の頭取は創業者の喜太郎。彼がこれを撥ねつけ、独立を守った。だからスルガ銀行の歴代トップは常に静岡銀行を意識している。さらに、東上する際に、必ず大きな壁として立ちはだかる横浜銀行の包囲網をどう、かいくぐるかを考えてきた。住宅ローンで抜け駆けを決断したのも、全国地銀協の当時の会長が横浜銀行頭取の小川是であったことと無関係ではない。

「ゲタの鼻緒をすげかえる」

 ユニークな頭取は3代目の喜一郎。「喜一郎はわしが預かる」。家父長の一言で、9歳のときから祖父・喜太郎のもとに引き取られ、「畳の縁を踏んでならぬ」といった行儀作法を厳しくしつけられた。2代目頭取・豪夫は旧古河銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)で、喜一郎は旧三井銀行で他人のメシを食べた。光喜は旧富士銀行に武者修行の草鞋を脱いでいる。

 この喜一郎は稀代のコレクターとして、美術界に大きな足跡を残した。復員した喜一郎は東京・上野の美術館で開催されていたリトグラフの巨匠、ベルナール・ビュッフェ展に足を向けた。ビュッフェは戦後、彗星のごとく登場したフランスの天才画家だ。「私は、感動して彼の絵の前に呆然としてたちつくした」と書く。虚無の中の挑戦的な眼(まな)差しに魅せられた喜一郎は、私財を擲(なげう)って、ビュッフェの作品を一点、一点買い集め、1973年、世界初のビュッフェ美術館を建設した。喜一郎の死(95年、78歳で死去)から4年後、ビュッフェは自殺した。パトロンの死が、自殺の原因のひとつといわれた。

 光喜の頭取(当時は頭取、その後社長と呼び方を変えた)就任を決めたのは父親の喜一郎だった。叔父にあたる岡野喜久麿を2期4年で退任させ、創立90周年、新本店落成を機にまだ40歳の光喜を頭取に抜擢、その若さに銀行の将来を託した。光喜が旧富士銀行で武者修行した理由は「オヤジが三井銀行に行ったから、私は財閥色の薄い富士にした」。20年ぶりに営業組織をいじった時にも、「オヤジには相談しなかった」と言った。オヤジ、オヤジを連発するのは、それだけオヤジの存在が大きかったということだ。

 スルガ銀行には「ゲタの鼻緒をすげかえる」という教えが連綿と引き継がれている。「ゲタの鼻緒が切れて困っている人がいたら、すぐ鼻緒を差し出せるように、ふところにしまっておけ」というものだ。ゲタを履く人もいなくなり、鼻緒の必要性もなくなったが、光喜は「銀行の経営はかくあるべし」と子供の頃から、ずっと聞かされて育った。

金融のコンシェルジュ

 光喜は1945年2月、沼津市で生まれた。光喜も父親譲りのフランス好きだ。ナポレオン皇帝即位200周年記念コインの販売が商売として成り立ったからだが、スルガ銀行を「コンシェルジュバンク」と名付けた裏には別の狙いがあるといわれた。コンシェルジュの語源は、鍵の管理人。高級ホテルで、有名なオーナーシェフのレストランの予約や劇場のプラチナチケットなどの手配をしてくれる専門職を意味するフランス語。銀行を訪れる人には、娘の結婚や子供の入学、マイホームの建設など、家庭内の様々なイベントがある。金融のプロである社員(行員ではない)が“金融のコンシェルジュ”として顧客のライフプランに合わせた商品やサービスを親身になって提供する。そんなコンセプトらしい。

 だが、コンシェルジュという洒落た言葉をちりばめているのは、日本の銀行の中で唯一、生き残った(といっていい)同族経営をカモフラージュする狙いがあるからだ、と有力地銀の頭取は辛辣だ。ガバナンスの仕組みに世襲制を残していることと、銀行は社会の公器という、光喜の発言に乖離はないのか、と言いたいのだ。雅子皇太子妃に保養所を提供したり、メガバンクより先に「手のひら静脈」で本人確認をして、預金の不正引き出しを防ぐ普通預金「バイオセキュリティ預金」を取り扱ったり、何かと話題になるが、常に、話題先行である点が気がかりである。

 静岡県は典型的なオーバーバンキング地区である。静岡銀行、スルガ銀行、清水銀行、静岡中央銀行と4行もある。中部銀行(本店静岡市)は経営破綻し消滅したが、それでもまだ多い。スルガ銀行・岡野一族はどこへ向かうのか。

 スルガ銀行は創業以来、最大の危機に立たされている、といっても過言ではない。
(文=有森隆/ジャーナリスト、文中敬称略)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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