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開成、麻布、灘…なぜ名門私学に通うと人生が変わるのか? 明治維新と創立者の歴史

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開成中学校・高等学校(「Wikipedia」より/SANDO)

開成麻布、2校の創立者の共通点


 私学の歴史や創立者の人生を読み解くと、その行間から、当時のリアルな空気感が伝わってくる。複数の学校史を読み比べれば、教科書で読むのとは違う、歴史の別の側面が立体的に見えてくる。これらは貴重な史料である。

 たとえば2018年は明治維新から150年にあたるとのことだが、私学には、明治維新の「負け組」あるいは「非主流派」がつくった学校が少なくない。薩長藩閥政治の中では自らを活かせないと感じた一角の人物たちが、青年たちに未来を託すために学校をつくったのである。

 私学の雄・開成。初代校長として高橋是清(1854-1936)が有名だが、彼は創立には一切かかわっていない。創立者は佐野鼎(1831-1877)。幕府直轄地駿河国に生まれ、江戸で砲術を学び、その後加賀藩に招かれた。1860年遣米使節、1861年遣欧使節に随行。洋式兵学のテクノクラート(技術官僚)として徴用された。1860年といえば「桜田門外の変」の年である。

 維新後、一度は新政府の兵部省に出仕するも主流派たり得なかった。忸怩たる思いがあったのだろう。すぐに辞め、1871年に「共立(きょうりゅう)学校」を設立する。しかしそれからたった5年で急逝。経営難に陥った学校を救ったのが当時若干25歳の高橋是清だった。

 高橋は江戸に生まれてすぐに仙台藩の足軽の家に養子に出された。横浜でヘボンに英語を学び、渡米するも、現地で奴隷とされてしまう。大政奉還のときには、アメリカで奴隷の身だった。自力で交渉し、奴隷契約を解消して帰国。現地仕込みの英語を教えるなどして暮らしていたところ、1879年、白羽の矢が立ったというわけだ。

 しかし高橋は1890年に校長の職を辞し、鉱山経営のためにペルーへ渡ってしまう。そこから共立学校は再び経営難に陥り、一度は東京府立に移管された。「東京府立共立」ではつじつまが合わないということから、このとき「開成」に学校名が変更された。『易経』の中にある「開物成務」に由来する。

 府立となることで経営的な安定は得たものの煩わしさもあった。そこで1901年に再び私立に復帰し、現在に至る。

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