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片田珠美「精神科女医のたわごと」

植松被告、やまゆり園障害者19人殺害を「正義」だと確信…強烈な欲求不満と他責的傾向

文=片田珠美/精神科医
植松被告、やまゆり園障害者19人殺害を「正義」だと確信…強烈な欲求不満と他責的傾向の画像1
相模原障害者施設で殺傷 容疑者を移送(写真:ロイター/アフロ)

 相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、入所者19人が刺殺され、職員を含む26人が負傷した事件で、殺人罪などに問われた元職員、植松聖(さとし)被告の初公判が8日、横浜地裁で開かれた。

 植松被告は起訴内容を認め、「皆様に深くおわびします」と述べた。だが、その直後、突然両手を口に近づけ暴れ出して取り押さえられた。いまだに「意思疎通の図れない人は死ぬべきだ」という独りよがりの主張を繰り返している彼が心から謝罪しているのか、疑問である。

 彼が犯行に及んだ心理を理解するうえで鍵になるのは、事件後の精神鑑定で「自己愛性パーソナリティー障害」と診断されたほど自己愛が強いことだと思う。彼の自己愛の強さは、さまざまな言動に表れている。その1つが、事件の5カ月前にレポート用紙3枚分の手紙を衆議院議長に渡そうとしたことだろう。

「障害者を大量に殺害する」 計画を総理大臣に伝えてほしいという内容だったらしいが、これは「自分は特別な人間だから、自分の思想や行動は特別な偉い人にしか理解されない」と思い込んでいたからではないか。何の根拠もないのに、そう思い込んでいたからこそ、「特別な偉い人」である衆議院議長にわざわざ手紙を渡しに行ったと考えられる。

 強い自己愛の持ち主は、自分自身を過大評価しがちで、「本当の自分はもっとすごいはず」と思い込みやすい。そのため、「これだけでしかない」現実の自分を受け入れられず、現状に満足できない。必然的に欲求不満が募りやすいし、うまくいかないのを他人のせいにする他責的傾向も強くなる。この2つの要因は、植松被告にも認められる。

強い欲求不満

 植松被告は何よりも仕事に対して欲求不満を募らせていたようだ。小学校の図工の教師をしていた父親の影響か、幼少の頃から父親と同じ小学校の教師をめざしていたにもかかわらず、教員採用試験に合格できず、一時的に引きこもりに近い状態だった。また、大学卒業後、飲料メーカーの配送員として勤務したが、「給料が安すぎて、経済的にきつい」と訴え、半年で退社している。

 さらに、「小学校教師はハードルが高いから、特別支援学校の教員をめざす」と言って、2012年12月から障害者施設で臨時職員として働き始め、翌13年4月に常勤職員として採用されたものの、次第に「仕事が大変だ」と愚痴をこぼすようになったらしい。

 2013年5月に勤務先で発行された家族会誌には、彼の「心温かい職員の皆様と笑顔で働くことが出来る毎日に感動しております」というメッセージが掲載されており、当初は前向きな姿勢を示していたし、仕事にやりがいも感じていたことがうかがえる。だが、次第に勤務地度が悪くなった。入所者の手の甲に黒いペンでいたずら書きをしたり、勤務中に「障害者は死んだほうがいい」と口走ったりするようになったのだ。

 このように勤務態度が悪くなった一因に、いくら親身になって障害者を支援しても、障害者の状態が劇的に改善するわけではなく、やりがいを感じられなくなったことがあるかもしれない。しかも、障害者がコミュニケーション能力に問題を抱えていると、意思の疎通が困難なことも少なくないので、理解も感謝もしてもらえないと植松被告が思い込んだ可能性もある。いずれにせよ、いくら頑張っても報われないと感じると、欲求不満が募るし、勤務態度も悪くなりやすい。

他責的傾向

 こうした欲求不満の原因をすべて他人に求めようとする他責的傾向も認められる。この他責的傾向は、自分の挫折や失敗を他人のせいにして責任転嫁しようとする傾向であり、植松被告が逮捕時に供述した「辞めさせられて恨みがあった」という動機に端的に表れているように見える。

 なぜ、責任転嫁するのか? 自己愛が強すぎるために、「これだけでしかない」現実の自分に満足できず、自分が「こうありたい」と願っていた理想像との間のギャップを受け入れられないからだ。

 植松被告にとっての理想像は、父親と同じように小学校の教師になり、教育に情熱を傾ける自分の姿だったのだろうが、現実の自分は教員採用試験に落ちて、子供の頃からの夢を叶えられなかった。そのうえ、「特別支援学校の教員をめざす」ための足がかりとして就職した障害者施設でも、勤務態度の悪さについてたびたび注意されていた。

 もちろん、誰だって多かれ少なかれ理想と現実のギャップに悩むはずだ。だが、自己愛が強いと、このギャップを受け入れられず、他人に責任転嫁して、「自分に能力がないわけでも、努力が足りないわけでもない」と思い込もうとする。つまり、「自分は悪くない」と主張したいわけで、自己愛の傷つきを防ぐための防衛手段ともいえる。

 もっとも、世の中の大多数の人々は、いくら他責的であっても、大量殺人など犯さない。ほとんどの大量殺人犯には、もう1つの要因が顕著に認められる。強い被害者意識である。

 植松被告も、被害者意識がかなり強かったように見える。だからこそ、退職に追い込まれたのは障害者を見下す態度や優生思想を正当化する自分自身の言動のせいだったにもかかわらず、その原因を施設、職員、そして入所していた障害者に求めて恨みを募らせたあげく、最も弱い存在である障害者に攻撃の矛先を向けたのだろう。

 被害者意識が強いと、「自分だけが理不尽な扱いを受けている」と何でも被害的に受け止め、「不正に害された」と怒りに駆られる。古代ローマの哲学者、セネカが指摘しているように、「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望」にほかならないので、復讐願望も抱きやすい。

正義を振りかざした大量殺人

 私が何よりも怖いと思うのは、植松被告が独りよがりの正義を振りかざして犯行に及んだことだ。「自分はいいことをした」と差別的な発言を繰り返しているので、自分は正しいことをしたと思っている可能性が高い。つまり、正義と信じているわけだが、自らの殺傷行為の正当性を疑わないのは一体なぜなのか?

 この謎を解く鍵は、植松被告が語った「辞めさせられて恨みがあった」という動機にあるように思われる。彼のこれまでの人生を振り返ると、自分の人生がうまくいかないことに対する恨みが相当強かったと推察される。

 だが、それを認めたくなかったのだろう。自分の人生がうまくいかず、そのせいで恨みを抱いていると認めることは、自分の負けを認めることに等しい。そんなことは彼の強い自己愛が許さなかったはずだ。

 自分の人生がうまくいかなかったことも、そのせいで自分が恨みを抱いていることも認めたくなかった植松被告には、何らかの正義が必要だった。だからこそ、「意思疎通の図れない人は死ぬべきだ」という独りよがりの正義を振りかざしたのだ。 

 フランス語で恨みを意味する「ルサンチマン ( ressentiment )」という言葉を用いて、「正義の起源がルサンチマンにある」ことを見抜いたドイツの哲学者、ニーチェはさすがである。ニーチェが指摘したように、植松被告は「復讐を正義という美名で聖なるものにしようとしている」にすぎない。

(文=片田珠美/精神科医)

参考文献

片田珠美『無差別殺人の精神分析』新潮選書、2009年

片田珠美『「正義」がゆがめられる時代』NHK出版新書、2017年

セネカ『怒りについて 他二篇』兼利琢也訳 岩波文庫、2008年

フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』中山元訳 光文社古典新訳文庫、2009年

片田珠美/精神科医

片田珠美/精神科医

広島県生まれ。精神科医。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。人間・環境学博士(京都大学)。フランス政府給費留学生としてパリ第8大学精神分析学部でラカン派の精神分析を学ぶ。DEA(専門研究課程修了証書)取得。パリ第8大学博士課程中退。京都大学非常勤講師(2003年度~2016年度)。精神科医として臨床に携わり、臨床経験にもとづいて、犯罪心理や心の病の構造を分析。社会問題にも目を向け、社会の根底に潜む構造的な問題を精神分析学的視点から分析。

Twitter:@tamamineko

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