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徳川家康は意外に優しかった? 大名配置に見る、関ヶ原直後・豊臣滅亡前の“温情人事”

文=菊地浩之
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徳川家康は意外に優しかった?大名配置に見る、関ヶ原直後・豊臣滅亡前の“温情人事”の画像1
徳川美術館(愛知県名古屋市)所蔵の『徳川家康三方ヶ原戦役画像』。三方ヶ原の戦いでの武田信玄に対する惨敗を終生忘れぬようにするため、家康自身があえてこのように苦虫を噛み潰したような顔に描かせた……との説が信じられてきたが、信憑性は薄いとされる。

大坂の陣以前は、秀頼に遠慮して西国不介入

 慶長5(1600)年9月15日、徳川家康関ヶ原の合戦で勝利した。

 その後、家康は敗者の領地を召し上げ、勝者には軍功に応じて加増および転封で報いた。たとえば、福島正則は尾張清須20万石から安芸広島49.8万石へ。池田輝政は三河吉田15.2万石から播磨姫路52万石へ、いずれも2倍以上の大盤振る舞いである。

 ただし、笠谷和比古氏によれば、この時、西国に転封となったのはいずれも外様大名、つまりは豊臣系大名で、譜代大名(つまりは徳川家臣)が京都以西に配置されるようになったのは、慶長14(1609)年を待たなければならなかったという。当初、家康は秀吉の遺児・豊臣秀頼に遠慮して、西国不介入の立場を取っていたのだという(笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館)。

 では、家康は親藩大名(子どもたち)や譜代大名(家臣団)をどこに配置したのか。そこには、怜悧といわれた家康の、意外に人情深い側面が垣間見えるのだ。

関ヶ原後直後の、親藩・譜代大名の配置3パターン

 関ヶ原の合戦後、家康の親藩・譜代大名配置は、大きく分けて3つのパターンに分類できる。

1、6万5000石以上は要衝に配置
2、6万5000石未満の旧領(5カ国)復帰
3、その他(つまりは6万5000石未満で関東残留組)

なぜ、6万5000石かといえば、ちょうどそこが区分できる境界線だというだけで、6万5000という数字自体には大きな意味がない。以下、1、2について述べていきたい(紙幅の関係から3は割愛させていただく)。

6万5000石以上は、地縁に関係なく要衝に配置

 関ヶ原の合戦後に6万5000石以上を領した親藩・譜代大名は10人。彼らは地縁に関係なく、要衝の地を任された。

 家康の2男・結城秀康は越前北ノ庄(のち福井に改名)、4男・松平忠吉は尾張清須、5男・武田信吉は常陸水戸に転封となった。4男、5男は子どもがなく、9男の尾張徳川義直(のち名古屋に移転)、11男の水戸徳川頼房が継承した。越前松平家と徳川御三家の原型がすでに出来上がっていたということだ。越前・尾張は畿内と東国を結ぶ要衝の地で、水戸は江戸の背後を守る。

 同様に近江佐和山(のち彦根に移転)の井伊直政、伊勢桑名の本多忠勝も畿内に対する抑え、一方の陸奥磐城平の鳥居忠政、下野宇都宮の奥平家昌、上野館林の榊原康政は東北に対する抑えであろう。

旧領復帰を許された、中小の親藩・譜代大名たち

 冒頭で述べた通り、家康は西国に親藩・譜代大名を置けなかったらしい。しかし、換言するなら、東国はほぼフリーハンドになったということだ。

 家康は三河(愛知県岡崎市)に生まれ、武田信玄・勝頼と対峙しながら遠江(静岡県西部)に領土を拡大し、武田家滅亡後に駿河(静岡県東部)を信長から拝領し、本能寺の変後に甲斐・信濃(長野県・山梨県)をかすめ取った(家康の5カ国領有)。

 ところが、小田原合戦後に関東への国替えを秀吉から命じられ、先祖代々の土地を奪われて、江戸に本拠を移した。先祖の土地から切り離されたのは、ひとり家康だけではない。家康の家臣たちもまた先祖代々の土地から切り離された。しかし、関ヶ原の合戦に勝利したことで、この旧領・5カ国国への復帰が可能になったのだ(たとえば、信濃国衆で大名に登用された3人は、いずれも信濃の旧領近くに復帰している)。

徳川家康は意外に優しかった?大名配置に見る、関ヶ原直後・豊臣滅亡前の“温情人事”の画像2
二木謙一著『関ケ原合戦』(中央公論社)ほかより作成/「氏名」に★がついているのは、松平姓を与えられている者

徳川家臣団父祖の地・三河へは誰を配置したのか

 家康は岡崎城に生まれ、浜松城、駿府城に移り住んだ。

 徳川家臣団の主軸は三河岡崎・安城近辺の生まれである。岡崎は戦略的にはさほど要衝とはいえないが、みなが羨望する先祖の地であろう。岡崎城に返り咲いたのは本多康重だ――。誰? 本多といえば忠勝、正信が有名だが、康重はその2人とはまた別流の第三の本多である。

 康重の生まれた本多家は、安城近くの土井村に居住する三河国衆で、忠勝や正信とは比べものにならないくらい大身だった。その屋敷は酒井忠次邸の2.5倍あったという。家康は毎年正月2日に三河国衆を集めて宴会を催していたが、父祖代々の家臣で、そこに参加できたのは康重の実家だけだった。同じ国衆でも東三河の奥平・菅沼辺りは、今川についたり武田についたり、その時の情勢に応じて立ち回ったが、康重の実家・本多家はいつも家康に付きしたがった。そのご褒美という訳である。

 岡崎の南・深溝(ふこうず)村で1万石を領したのは、同村出身の松平忠利だ。彼の父・松平家忠は『家忠日記』の著者としても有名で、関ヶ原の合戦の前哨戦・伏見城の攻防戦で討ち死にした。ちなみに忠利の祖父・曾祖父も家康に従い、討ち死にしている。実は本多正信が常陸国内での加増を勧めたところ、忠利は加増がなくても構わないので、父祖の地・深溝村への転封を願い出たという。故郷に錦を飾り、さぞ誇らしかったに違いない(このこともあって、のちに忠利が三河吉田に転封となった際には、3万石に加増されている)。

 このほか、家康の長女の4男で、家康の養子となった松平忠明(ただあきら)は、父の実家・奥平家旧領の作手(つくで)を与えられた。また、竹谷(たけのや)松平家(愛知県蒲郡市竹谷町出身)で、家康の異父妹・於きんの方の夫、松平家清も、旧領の近く三河吉田(豊橋市)を与えられている。1万石未満なので本文末の表には掲載しなかったが、形原(かたのはら)松平家の松平家信も、旧領・形原に5000石を与えられている。

 ちょっと異色なのは、三河田原を与えられた戸田尊次で、先祖は田原出身なのだが、姻戚に水軍関係者が多く、水軍を束ねる目的で三河の湾岸部に領地を与えられたらしい(ちなみに、関東国替えでは伊豆下田を領していた)。

浜松城は“ご学友に”、甲斐は“大親友”に

 浜松城は、松平忠頼18歳に与えられた。忠頼は桜井松平家(安城市桜井町出身)の跡取り息子で、伯父の松平忠正は家康の人質時代の“ご学友”であり、家康のお気に入りだったらしい。家康の異父妹・多劫姫(たけひめ)を妻にもらったが、34歳の若さで急死。その子・松平家広も25歳で死去してしまった。実は“ご学友”忠正が早死にしてしまったので、その弟・松平忠吉と多劫姫が再婚し、その間に生まれたのだ忠頼というわけだ。家康とご学友との友情が垣間見える。

 ご学友といえば、家康と一番の親友だったのは、同い年の平岩親吉(ちかよし)だったようだ。親吉もまた、家康人質時代のご学友である。親吉に子どもがなかったので、家康は8男・仙千代を養子として与えている。松平一族以外の家臣に、家康がわが子を養子に出しているのはこの事例だけである。

 家康は武田信玄をことのほか尊敬し、甲斐国には強い思い入れがあった。甲斐を手に入れた時、その支配を委ねたのが平岩親吉で、関東に国替えするまで8年間治めていた。関ヶ原の合戦後、甲斐は再び親吉に与えられた。

 その武田信玄・勝頼父子との攻防戦で最前線の遠江横須賀城を任され、出世した大須賀康高の養子・大須賀忠政には、関ヶ原の合戦後に再び横須賀が与えられた。

のちに隠居することとなる駿府城は、異母弟?を

 駿府城は内藤信成に与えられた。信成は家康の父・松平広忠のご落胤、つまり家康の異母弟という噂がある。家康が関東に国替えになると伊豆韮山に転封となって西への玄関口を任され、関ヶ原の合戦後は駿府城を任されている。異母弟という噂の真偽は定かでないが、信頼が厚かったことは間違いない。

 周知の通り、家康は将軍の座から退き、大御所になると駿府に隠棲した。慶長11(1606)年に信成は近畿の抑えという名目で近江長浜に移され、駿府城を改築して家康が引っ越した訳である。

 徳川家の天下が確かなものになってくると、譜代大名は全国各地の要衝へと再配置された。だからすっかり忘れられてしまっているが、関ヶ原の合戦後、家康が家臣に見せた意外な気配りがあったのである。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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