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「偉人たちの診察室」第7回・徳川家康

精神科医が語る徳川家康の「愛着障害」トラウマ連続の前半生、十代後半から戦闘に明け暮れ

文=岩波 明/精神科医
精神科医が語る徳川家康の「愛着障害」トラウマ連続の前半生、十代後半から戦闘に明け暮れの画像1
江戸時代初期の幕府御用絵師、狩野探幽が描いたとされる徳川家康像(大阪城天守閣所蔵)。家康は幼少期から青年期にかけて、人質として不遇な半生を送った。(画像はWikipediaより)

 よいたとえではないかもしれないしスケールも異なっていると批判されそうではあるが、わが国の戦国時代を大きく転換させた織田信長を西洋に当てはめるならば、ローマ時代の最高の将軍であり大ローマの礎を築きながらも、暗殺者の刃に倒れたカエサルになぞらえられるかもしれない。

 それでは今回のテーマである徳川家康はどうかというと、カエサルの縁者であり、ローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスにどこか似ているようだ。彼はカエサルの後継者となり、時には戦闘で時には政治力によって、対立する実力者たちに打ち勝ち、数百年にわたるパックスロマーナの基礎を築いた。

 一方で徳川家康は「海道一の弓取り」と称えられ、数々の合戦の勝者となったことに加えて、巧みな政治的な策謀によって、数百の戦国大名に対する支配体制を確立した人物である。

 アウグストゥスとの最も大きな違いは、徳川家による支配では、「血縁」が何よりも重要であった点である。アウグストゥスもみずからの血族による皇位の継承を願ったがかなえられず、その後もローマの皇帝の地位は、血縁関係で相続されることはなかった。

 一方で徳川家は、「御三家」という血族の補充システムを作り出し、血縁による支配体制の連続には成功した。が、家康以降の徳川家の将軍には、あまり見るべき人物がいない点は残念なことである。

家康は、信長、秀吉が築いた天下統一を横からかすめとった?

 江戸幕府の創始者である徳川家康は、日本史の中で最も知名度の高い武将のひとりであり、またそれにふさわしい実績を持っている人物である。

 けれども一般的には、家康はあまり人気がない。家康は織田信長、豊臣秀吉とともに「戦国三傑」と呼ばれることがあるが、他の2人に比べると地味な存在で、悪役とまではいかないまでも、憎まれ役であることが多い。

 たとえば、評論家の八幡和郎氏も、家康には手厳しく、「ひたすらにケチで臆病だが、戦国の世ではそれが貴重だった。徳川家の利権確保だけを目的に日本を長い停滞期に入らせて国益を著しく傷つけた」と評している(八幡和郎『本当は偉くない?歴史人物』ソフトバンク新書)。

 その理由のひとつとして、家康は、信長、秀吉が築いた天下統一を横からかすめとったというイメージを持たれていることが挙げられよう。特に、大坂の夏の陣(1615年)で、秀吉の遺児の秀頼とその母である淀君を自害に追い込み豊臣家を滅亡させたことから、無慈悲な悪人のように語られることもある。

 さらにさかのぼって 関ヶ原の戦い(1600年)において、多くの豊臣家恩顧の大名たちをあの手この手で篭絡し、裏切り行為に誘いこんでみずからの勝利をもたらしたことについても、腹黒く老獪な陰謀家とみなされることも多い。

まず、「武将」として強かった家康

 しかし家康の生涯を振り返ってみるならば、このような見方はかなり一面的である。

 天下人である豊臣秀吉が死去したのは、1598年、それ以降大坂夏の陣が決着を見た1615年までの期間は、まさに「政治家」家康の本領が発揮された時期で、家康の悪賢いともいえる「知恵」によって、徳川幕府の支配体制が日本全国に行き渡っていった。

 家康は重臣である本多正信とともに、大名の配置換えを巧みに行い、時には冷酷に取りつぶしをして外様大名の力を削いだ。一方で親藩、譜代の大名を要地に配置し、反乱の目を事前に防ぐ措置を取った。こういった「政治」によって、幕府に逆らう大名は皆無となった。

 しかしこの時期の家康を見て彼の「本質」と判断してしまうのは、公平ではない。

 というのは、豊臣政権の重鎮となるまでは、家康は政治家というよりも、むしろ「武将」として存在を認められていたからである。この点について、多くの人はあまり認識をしていない。

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幕末から明治にかけて活躍した浮世絵画家・歌川豊宣画が明治に入って描いた『尾州桶狭間合戦』。同戦いでの今川義元の討死を機に、家康は今川氏から独立して織田信長と同盟を結んだ。(画像はAmazonより)

織田信長の天下統一を影で支えた家康

 家康は、長い間、織田信長の良き同盟者であった。松永久秀、荒木村重、そして明智光秀と、信長から離反した武将は数多い。これに対して家康は、1560年の桶狭間の戦いの直後から織田家にくみして、1582年の信長の死に至るまでの期間、信長の意向に背くことは一度もなかったし、隠れて別の武将と手を組むこともしていない。

 家康は劣勢な合戦にも進んで参加をし、命の危険にさらされたこともある。朝倉家との戦闘では、浅井勢の裏切りによって背後をつかれて窮地に陥ったが、家康の一隊は、秀吉の軍勢とともに織田軍のしんがりを務め、織田家の窮地を救った。

 織田信長の天下統一の過程においては、豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家といった有能な家臣の活躍が強調されることが多く、実際彼らの貢献には大きなものがあったが、実は織田軍の快進撃を背後から支えたのは、家康とその家臣であり、家康の存在がなければ、信長の覇権の確立は難しかった。

 晩年の家康は老獪で狡猾であったかもしれないが、織田と同盟を結んでいた時期には、「律義者」として評価されていた。さらに前述したように家康は、武将としても能力は高かった。家康は、「海道一の弓取り」と称えられたこともあった。

 ここでいう海道は東海道のことである。弓取りは「弓矢で戦う者」から転じて、国持ち大名のことを指している。 かつては今川義元もこう呼ばれたが、後に東海道を支配した徳川家康もそう呼ばれるようになった。

家康の、複雑な生い立ちと数奇な運命

 徳川家康は、戦国時代という時代背景を考えても、複雑な生い立ちと数奇な、ある意味波乱万丈の人生を送った人物であった。多くの人がイメージしている、「狡猾な狸親父」と、家康の実人生はかなり異なっている。

 家康の少年時代は、両親の庇護も愛も受けることができず、不幸な時期であった。家康は、三河国の土豪、松平家の第8代当主・松平広忠の嫡男として1543年に出生した。母は有力な領主である水野忠政の娘・於大であった。

 松平家は、隣国の大名である今川家の庇護を受けていた。ところが、生母の兄が、今川家と敵対する織田家と同盟したため、広忠は於大を離縁し、家康は3歳で母と生き別れになってしまう。

 その後の家康の運命は、二転三転する。家康は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中で家臣の裏切りによって、尾張の織田信秀の人質となっている。

 その2年後には、父である広忠が死去した。広忠はまだ20代半ばの若さであったが、これは病死とも、家臣の裏切りによる非業の死ともいわれている。

家康の前半生は、「トラウマ」の連続

 その後家康は、今川家と織田家との人質交換によって、駿府に移された。以後、家康は駿府で生活を続けることとなり、元服後に、今川義元の姪である築山殿を妻として迎えた。

 この築山殿の生んだ嫡子信康が、のちに謀反の疑いをかけられて、織田信長によって切腹に追い込まれることとなる。正室の築山殿も殺害された。家康はこの2人の死を黙認している。

 このように家康の前半生は、現在の言葉でいうならば、いわゆる「トラウマ」の連続であり、戦国時代であることを考えても、過酷な運命に翻弄された人生であった。

 生母とは無理やり生き別れとなり、さらに尾張、駿河における人質生活は、付き従っている家臣はいたであろうが、少年時代の家康にとっては心休まらないことが多かったであろう。父親の死に目にも会えていない。精神的に不安定になることや、ぐれてしまわなかったことが不思議である。

 こうしたなかで稀なことと感じられるのは、桶狭間の戦いの後に岡崎城に帰還した家康が、ためらうことなく織田家の同盟者となり、その後20年以上にわたって律儀に同盟関係を維持した点である。

十代の後半から壮年時代まで、戦闘に明け暮れた家康

 ドラマや物語に登場する家康は、主役であることは比較的少ない。大河ドラマなどにおいても、重要な役割を担っているが、他の登場人物と対抗する勢力として描かれることが多い。

 家康その人に焦点を当てた作品としては、隆慶一郎氏のベストセラー小説、『影武者 徳川家康』(新潮社)が挙げられる。

 この作品は家康の影武者が主人公で、関ヶ原の戦いで家康は暗殺されて影武者が入れ替わったという設定になっているが、前半部分では、「本物」の家康が登場している。

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1989年に発表された、隆慶一郎による小説『影武者 徳川家康』(新潮社)。画像は新潮文庫版。

 この小説に描かれた家康像は、多くの人が抱いている「狡猾で老練」なイメージとは異なっている。数々の激戦を制してきた力強い荒武者としてのイメージが強く印象づけられるものである。

 事実、家康は大名ではあったが、多くの戦闘を先頭に立って制してきたし、ほとんど戦に負けるということを知らなかった。唯一の例外を挙げれば、信玄が率いる武田勢の大軍に、三方ヶ原の戦いで大敗を喫したことくらいである。

 家康の初陣は15歳、桶狭間の戦いに参戦したのは若干17歳のときである。20歳のときには領内に一向一揆が起こり、多くの部下の武士が一揆側に加担したため、苦戦を強いられたがこれを制圧した。

 27歳、信長の戦いに援軍として参加し、浅井、朝倉勢と戦う。これ以降は、甲斐の武田信玄との争いが続き、三方ヶ原の戦いで大敗したが、信玄の死去により、再び攻勢に出る。

 その後、高天神城の戦い、長篠の戦いなどの合戦で、信玄の後継者である武田勝頼を破るが、1582年、家康が39歳のときに、本能寺の変が勃発し、織田信長が命を失ったのだった。

 このように十代の後半から壮年時代まで、家康は戦闘に明け暮れていたのだった。

家康は、秀吉に合戦で勝利した数少ない武将

 家康の戦上手は、本能寺の変の後における秀吉との覇権争いにも発揮された。山崎の戦いにおいて明智光秀をたおした秀吉は、みずから信長の孫にあたる三法師の後ろ盾となり、政権の奪取をうかがった。これに対して、信長の重臣である柴田勝家や、信長の三男である織田信孝は反旗をひるがえしたが、いずれも秀吉に滅ぼされてしまう。

 一方、次男である織田信雄は家康と同盟を結び、秀吉と本格的な戦闘が開始された。これが小牧・長久手の戦いである。この合戦は戦闘員の数としては秀吉軍がはるかに上回っていたが、持久戦となり、焦った秀吉軍の一部を局地戦で家康・信雄軍が殲滅するという局面も見られている。完全勝利とはいえなかったが、家康は秀吉に合戦で勝利した数少ない武将なのである。

 このように「海道一の弓取り」として名を上げた家康であったが、実は文化人としての顔も持っていた。家康は古典の愛好者であり、古い資料を収集して駿府城に「駿河文庫」を作り、多くの蔵書を所蔵していた。実は家康は、多方面に造詣の深い文化人でもあったのだ。

【参照】笠谷和比古編『徳川家康 その政治と文化・芸能』宮帯出版社

嫡男・信康に対する信長からの切腹命令の理不尽さにも耐えた家康

 特に鎌倉時代の歴史書である『吾妻鑑』については、家康が散逸した史料を集めて再編集をしたことが知られている。また『源氏物語』の教授を受けていたことに加えて、中国の古典もよく学んでいた。

 家康の生涯を通して感じられる特徴は、よく指摘されているように、「長い時間にわたって待つことができる」ということと、「感情面での安定さ」である。この点については、血気にはやって衝動的に物事をすすめる傾向の強かった織田信長とは対照的である。

 これまで述べてきたように、家康の人格は複雑であり多面的である。その人格の「強さ」については、成長期や青年期において多くの逆境を乗り越えてきたことと関連しているのかもしれない。

 嫡男・信康による「謀反」が発覚し(謀反自体が事実でないという主張もある)、織田信長によって切腹に追い込まれた際にも、どんなにか辛く理不尽な思いをしたであろうが、家康は騒ぐことがなくこの裁定に従った。

 大坂夏の陣における豊臣家の扱いについて、非難されることが多い家康であるが、総じて家康は、自らに離反したものや、合戦の敗者に対して、寛大であることが多い。

 三河の一向一揆で一揆群に加わった本多正信も後に許して部下に復帰させ、自らの参謀とした。また、関ヶ原の戦いおける西軍の大将であった石田三成についても、その嫡男を処罰することなく許している。

 実は豊臣家も、生き延びる余地は残っていた。家康は豊臣秀頼に大坂城を出て国がえをするように指示をしていたのであったが、豊臣家はこれを拒否した。足利将軍家や織田家の一族が江戸時代を通じて小大名として存続したことを考えるならば、豊臣家もそのようにして生き残るすべはあったのである。政治的な思惑があったにせよ、家康は世の中の人が思っているほど、無慈悲で冷酷ということはないのである。

徳川家康は「愛着障害」といえなくもない……?

 それでは、こうした家康の生涯を精神医学的に検討したら、どう考えられるだろうか。何か病的な兆候は見いだせるのだろうか。それとも、まったくの健常者とするのが正しいのだろうか。

 幼児期、小児期のおける両親との離別やその後の長い人質生活に着目すると、現在の精神科医は、小児に対する病名であるが「愛着障害」(診断基準では「反応性愛着障害」)という診断を持ち出すかもしれない。

 以下に、DSM-5におけるこの「反応性愛着障害」の診断基準を示してみよう。<

【反応性愛着障害の診断基準】(DSM-5による)

A 以下の両方によって明らかにされる、大人の養育者に対する抑制され情動的に引きこもった行動の一貫した様式
(1)苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽を求めない。
(2)苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽に反応しない。

B 以下のうち少なくとも2つによって特徴づけられる持続的な対人交流と情動の障害
(1)他者に対する最小限の対人交流と情動の反応
(2)制限された陽性の感情
(3)大人の養育者との威嚇的でない交流の間でも、説明できない明らかないらだたしさ、悲しみ、または恐怖のエピソードがある。

C その子どもは以下のうち少なくとも1つによって示される不十分な養育の極端な様式を経験している。
(1)安楽、刺激、および愛情に対する基本的な情動欲求が養育する大人によって満たされることが持続的に欠落するという形の社会的ネグレクトまたは剥奪
(2)安定したアタッチメント形成の機会を制限することになる、主たる養育者の頻回な変更(例:里親による養育の頻繁な交代)
(3)選択的アタッチメントを形成する機会を極端に制限することになる、普通でない状況における養育(例:養育者に対して子どもの比率が高い施設)

 家康の小児期に関する資料はほとんど残っていないため、この診断が当てはまるか確認することは困難である。しかしながら、後年の家康の特徴である粘り強さや我慢強さは、この診断による症状(診断項目「A」)と関係があるようにも感じられるのである。

 現実の辛い、耐えがたい出来事に対して、人はしばしばすべての感情を遮断することで対応する。この行動は意識的なものではないが、時にはすべての感情が失われたような状態になる(これを精神医学では「情動麻痺」と呼ぶ)。

 そして家康が経験したような、診断基準「C」のような経験が繰り返し起きると、その個人は周囲に起きることすべてに対して、感情的な反応を示さないようになってしまう。

 家康が生涯にわたって感情的に動揺することなく、冷静に時を待って耐えることができたのは、確証はないがましかすると、「愛着障害」のメカニズムが働いていたのかもしれない。

 家康が、一向一揆や武士団の離反、そして嫡子・信康の自害といった危機的な状況も破綻なく乗り越えることができたのは、幼い頃の苦難と関連していたのであろう。

(文=岩波 明/精神科医)

岩波 明/精神科医

岩波 明/精神科医

1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の   診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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