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“史上最低の祭典”東京五輪を強行する必要はあるのか?世界が一つになった1964年との違い

文=織田淳太郎/ノンフィクション作家
史上最低の祭典東京五輪を強行する必要はあるのか?世界が一つになった1964年との違いの画像1
「gettyimages」より

 あくまでも五輪開催ありきなのか。

「緊急事態宣言はゴールデンウィークと関連しているもので、東京五輪とは関係ない」

 国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の強行発言を受ける形で、入国者に対する政府の新型コロナウイルス対策案が打ち出された。選手やコーチ、介助者は入国後毎日、ウイルス検査を実施。宿泊先や練習会場、試合会場のみとする行動範囲の限定。移動先や交通手段を明記した活動計画書の提出と、その内容に対する誓約書。さらに、それに違反した場合の大会参加の資格剥奪……。

 しかし、私は思う。東京五輪・パラリンピックの開催に対して、世界世論の多くが反対の立場をとる中、果たして同五輪の開催を強行する必要があるのか。

 独米PR戦略大手の「ケクストCNC」が日米欧6カ国を対象に実施した世論調査では、アメリカを除く5カ国で年内開催に「同意しない」が賛成を上回っている。中でも、開催国である日本のそれは最多の56%にのぼった。

 その停滞ムードを物語るように、3月25日に福島から始まった聖火リレーでは、五木ひろし(歌手)、広末涼子(女優)、藤井聡太(棋士)、笑福亭鶴瓶(落語家)といった著名人が次々と参加要請を断る「辞退ドミノ」が起きた。2016年に入所者19人が殺害された相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」でも、被害家族の一部が「フェスティバルの一環としての採火に違和感を持つ」と、相模原市に対して採火の中止を求めている。

 盛り上がりに欠けた史上最低の祭典になるのが必至の、今夏の東京五輪。そもそも私は2013年9月、IOC総会で開催都市が東京に決定したときから、2度目の東京五輪の開催に懐疑的な目を向けてきた。

 戦後復興の象徴となった57年前の東京五輪。東海道新幹線、高速道路、モノレールなどの建設が東京を世界有数の大都市に押し上げ、経済協力開発機構(OECD)に加盟した日本が先進国の仲間入りを果たす起爆剤になっただけでは、物足りないのか。今やアメリカ、中国に次ぐGDP(国内総生産)を誇る日本は、2度目の東京五輪開催にいったい何を求めているのか。

 国家の威信なのか。長期的視座に立った経済の再勃興なのか。あるいは、人類平和のための礎なのか。だが、それはすでに57年も前に成されている。

 1964年の東京五輪。それが果たした役割とは何だったのか。かつて交流のあった元NHKの名アナウンサー・西田善夫さん(故人)の回想の助けを借りながら、振り返ってみる。

カラー映像・衛星中継・都市の変貌…実況担当アナの回顧

 1964年の東京五輪は、アジアで初めて行われたオリンピックであり、有色人種国家における史上初の開催という意味でも、国家間の垣根を取り払う平和的祭典のカラーが強かった。参加国・地域93という過去最高の数字(当時)がそのことを物語っていたが、夏冬合わせて計10度のオリンピック実況を担当した西田さんによると、映像においても東京五輪が果たした役割は画期的なものだったという。

「4年前(1960年)のローマ五輪までの映像提供はビデオ映像の空輸に頼っていましたが、東京五輪で試みたのは世界初の衛星中継でした。現在のハイビジョン映像へとつながる高品質画質の研究に取り組んだのも、この大会を契機としていたのです。東京五輪では映像にアクシデントが生じた場合の“お断り原稿”を読むのが私の主な仕事でしたが、それ以上に初めて見るカラー映像が私には新鮮に思えました。東京五輪は日本を大国へと押し上げる原動力になっただけでなく、映像に対しても大きな転換のチャンスを与えてくれたのです」

 西田さんは1958年、NHKに入局した。東京五輪に関わるようになったのは、五輪の東京招致が決まった後の1960年に、NHKがスポーツ実況を志望するアナウンサーを全国の支局から募ったことに端を発しているという。

 当時、西田さんは北海道の室蘭支局に勤務していた。さっそく応募すると、ローマ五輪終了後の1カ月後には熊本での研修に赴き、その後は東京にも研修のために何度も足を運んだ。

「東京の街が大きな変貌を遂げつつあるのがわかりました。羽田から延びる高速道路やモノレールの建設が急ピッチに進められていましたし、東京―大阪間を結ぶ新幹線も大急ぎで建設されていました。紀尾井町のホテル・ニューオータニも、完成に向けて着々とできあがっていたことを覚えています。

 それまで土の床だった東京体育館はきれいなフローリングがされましたし、駒沢公園の造園も始まっていました。晴海通りと青山通りには鉄板が敷き張られ、都内を縦横に走る都電も少なくなっていきましたね。

 代々木の国立競技場の庭には、撤去されたその都電の敷石が使われました。世界の一都市から世界の巨大都市にのし上がるため、東京全体が総力を挙げて、世紀の大イベントを迎える準備をしていたのです」

 敗戦からの平和的な復興を目指し、当時の東京がいかに真摯に取り組んでいたか。それを物語るようなエピソードが残されている。

 甲州街道のマラソンコースの折り返し地点である飛田給。その道路舗装を請け負った建設会社の舗装ぶりは、「コテをかけるように」丁寧かつ慎重そのものだったという。

 ある日、その舗装現場に日本陸上連盟の関係者がやってきて、次のように懇願した。

「そろそろ工事はやめてください! まもなく先頭のランナーが折り返し地点にやってきます」

 急ピッチながら、道路整備を丁寧に行っていたためのジョークである。

ソビエトを倒した女子バレーの「監督ゲリラインタビュー」

 西田さんのアナウンススタイルは、「汗と涙の……」といった誇張した言葉を排除し、簡潔にして機知に富んだ実況を行ったことで知られる。

 西田さんが初めて実況を務めたのは、男子バレーボールの日本vsチェコスロバキア。しかし、最もインパクトが強かったのは、日本中を熱狂させた日本vsソビエトの女子バレーボールの優勝決定戦だったという。

「この試合、私はラジオ実況担当の土門正夫アナウンサーのアシスタントを務めていましたが、実はもう一つ重要な役目を担っていたんです。日本の優勝直後、大松博文監督のコメントをとることです。これがなぜ重要かというと、当時は放送インタビューが一番後回しにされていたからです。表彰式を行い、プレスでの記者会見を終え、最後に放送インタビューという順番でしたが、この順番ではいざマイクを向けたときに、感動の汗も涙も乾いているかもしれない。そうなっては、インタビューの意味が薄れてしまいます。

 そこで、ゲリラインタビューをしようということになり、私がそのインタビュアーに選ばれました。私は身長が184cmあって、優勝決定後のもみくちゃ状態でも、多少は目立つだろうとプロデューサーが判断したんですね。要するに、マスコミ協定での“ルール違反”を敢行したわけです」

 日本の優勝が決定した直後、西田さんは歓喜の渦と化した選手団の中に入り込んだ。その目の先に、コートサイドのベンチに腰かけ、タバコを吸っている大松監督の姿がわずかに見えた。

 西田さんが歩み寄ると、その存在に気がついた大松監督が立ち上がった。西田さんは大松監督のセリフを、当の本人に向かってそのまま口にした。

「“成せばなる”は、本当でしたね」

「勝負は7-3の力の差があれば勝てます。うちはソ連の何倍も練習したので力はあったし、勝てる自信はありました」

 大松監督の表情に穏やかな笑みが浮かんでいた。

 西田さんは回想している。

「大松監督は“地獄の猛特訓”で知られ“鬼の大松”とも呼ばれました。今でもそういう怖い印象をお持ちの方はいるでしょう。でも、それは完全な誤解です。

 このソビエトとの決勝を前に、神永とヘーシンクによる柔道無差別級の決勝がありましたが、大松監督は選手に『柔道は絶対に見るな』と釘を刺しているんです。神永の不利をわかっていて、選手たちに余計な動揺を与えたくなかったからです。大松監督はそういう気配りのできる人でした。

 確かに、主将の河西昌枝さんをはじめとする選手たちは、練習でボールこそぶつけられました。でも、『蹴られたり、殴られたことは一度もなかった』とみんな口を揃えていますし、それどころか『監督は私たちの父であり、恋人です』と、大松監督を理想の夫とする選手たちも多かった。そういう深い信頼関係が“東洋の魔女”の快挙を生んだのだし、ある意味で選手と指導者の理想的な関係も、そこにあったような気がします」

4000人以上の選手やコーチが参加した閉会式

 重量挙げの三宅義信の金メダルで始まり、男子マラソンの円谷幸吉の銅メダルで締めくくった東京五輪。日本は金メダル16個を含む計29個のメダルを獲得し、国際競技力のレベルを一気に飛躍させた。

 しかし、西田さんによると、東京五輪で最も感動的だったのは、競技よりもむしろ、10月24日の閉会式の方だったという。

 そもそも五輪の閉会式は、聖火の消灯式や五輪旗の引き継ぎ式など厳粛な雰囲気で行われてきた。4年前のローマ五輪でも、各国の旗手しか参加が認められなかったという。

 東京五輪では初めてその制約を解き放ち、閉会式への選手の参加を自由にした。すると、参加総数の8割に相当する4000人以上もの選手やコーチ、役員などが閉会式に集まってきた。これは、大会の運営者にも予想できなかったことだという。

「ハプニングの連続でした。日本選手団が生真面目に行進する中、黒人選手がコウモリ傘をトーチ代わりに持って走り回っているんです。旗手を務めた水泳の福井(誠)選手を肩車した外国人選手もいました。それでも、真面目な態度を崩そうとしない福井選手が、なんともユーモラスに見えましたね。

 こうしたハプニングはNHKにとっても想定外で、閉会式を実況した土門アナウンサーなど『調べたことを何も話せなかった』と怒っていたほどです。でも、逆にそれがよかったんですね。局に戻ってくると、局長に『素晴らしい閉会式と実況だった』とほめられ、そのまま銀座に飲みに連れていってもらったそうです。その話を聞いて、私も『実況は別に堅苦しくなくていいんだ。普通に話していいんだ』と思ったものでした」

 商業主義と勝利至上主義、そして国家間の利害ばかりが優先される、昨今の五輪のあり方。それを見直し、本来の五輪の姿に立ち返るためにも、私たちは「世界が一つにつながった」57年前の東京五輪をもう一度、思い出すべきなのかもしれない。

(文=織田淳太郎/ノンフィクション作家)

織田淳太郎/ノンフィクション作家

織田淳太郎/ノンフィクション作家

1957(昭和32)年北海道生まれ。ノンフィクション以外に小説の執筆も手掛ける。著書に『巨人軍に葬られた男たち』(新潮文庫)、『捕手論』『コーチ論』(光文社新書)、『ジャッジメント』(中央公論新社)など。

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