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佐藤信之「交通、再考」

菅義偉氏、首相への出世とJR東日本との関係…弟が同社子会社へ就職

文=佐藤信之/交通評論家、亜細亜大学講師
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菅義偉首相(「首相官邸 HP」より)

国会議員と利権

 国会議員は、選挙に当選して初めて国政での活躍が許されるわけで、落選したら「ただの人以下」といわれる。だから、議員の第一の関心事は、いかに選挙で当選を確実なものにするかであり、そのために政党の支持組織とは別に、日頃の選挙区内での付き合いのなかで、寄付金の提供を受け、選挙運動を取り仕切ってくれる支援者の獲得に精力を尽くすことになる。

 そして支援者とは、まめに会食などの場を設定して、個々に意向や希望を聞き取り、それを予算に反映させることで、支持を確実なものにすることができる。場合によっては、担当官庁の許認可を直接担当する官僚を引き合わせるということもする。

 菅義偉氏が、横浜市での財界をバックにして国政に進出し、総理大臣にまで出世した背景には、まさにこの選挙区の経済界との密な付き合いと便宜提供の構造があったといえる。

 議員と財界との関係は、ロビー活動そのものであるが、本来のロビー活動が政治家個人と陳情者の間で直接の利益関係が生じず、政策という公共サービスに対する国民の需要の強度を訴えかけるのに対して、日本の保守政党の議員と支持者の間の関係は、日頃からの緊密な付き合いのなかで利益共同体となり、支持者は議員の選挙での当選を請け合い、その支持者に対して政治家が有形・無形のサービスで報いる関係となっている。

 結果的に、政治家に献金し、個人的な関係でつながった地域への影響力を持つ有力者の意向だけが、政治に反映することになり、真に民主主義の主体としての一般市民の意向がないがしろにされることがあると、糾弾されるべきであろう。

 日本がまだ貧しかった昭和30年代、日本の経済発展には企業が重要な役割を担った。国は、経済計画を策定して、経済成長のための予算を組み、先端技術の開発のために民間企業が参加する研究組織を設け予算を投じた。しかし、日本の高度経済成長は、もともと国が先導したものではなく、戦後復興から経済成長に移行する段階で民間企業が積極的に設備投資を行った結果であり、それにより国民の所得が増加し、ひろく庶民が電化製品を中心にお金を使うようになった成果であった。政治家が偉かったからではない。

 その後、自民党政権が長く続く中で、大企業や有力者による自らに有利な政策を求める熱心なロビー活動の結果、選挙地盤と利益誘導政策という保守政党の支持確保のメカニズムが確立していった。

菅義偉の人となり

 菅首相は秋田県の湯沢の出身。東京に出てきて法政大学法学部政治学科に入学。昭和48年に卒業すると、いったんは民間の企業に就職した。しかし政治の世界を目指す志が強く、横浜市選出の衆議院議員小此木彦三郎の秘書となった。小此木は昭和44年から衆議院議員であり、昭和58年には通産大臣に就任し、昭和63年12月から翌年まで建設大臣を務めた。また、中曽根行革の時に国鉄改革にもかかわるなど、交通問題に熱心に取り組み、運輸・建設族の議員として業界への影響力を持っていた。

 横浜は、江戸時代に日米修好通商条約の締結により開港場に指定されて以来、海外貿易を中心に港湾都市として発達してきた。大型貨物船は沖に停泊して、陸との間を艀で中継していたが、貨物の積み降ろしや積み込みはすべて手作業で、多くの人足が働いていた。その人足の手配をしていた業者が大きくなった企業に、藤木企業という港湾荷役業者がある。この創業者の藤木幸太郎は、神戸の甲陽運輸を経営し、山口組の三代目組長となった田岡一雄とも交流があった。その息子の藤木幸夫は、現在「ハマのドン」と呼ばれる横浜の経済界を取り仕切る存在となっている。もちろん反社会勢力とは無縁の堅気の人である。

 小此木は、とくに鉄道会社との付き合いを重視し、横浜市内に路線を持つ東急、京急、相鉄とは選挙で支援を受ける関係であった。小此木の秘書は、それぞれ支援会社の担当が決まっており、菅は仕事ぶりを評価されて、最後は筆頭格の秘書として最上位の東急を担当した。

 菅の国政との接点は、昭和58年に小此木が通産大臣に就任し、菅が大臣秘書官となった時に始まり、これにより官僚との付き合いが広がった。政財界の有力者に加えて官僚としばしば会食の場を設け、それ以降、情報交換の場として重宝することになる。

 基本的には、会食により広く意見交換することは政治家として正しいのであるが、そこでは利権につながらないという節度を守って行われる必要がある。

市議会議員時代

 菅は、昭和62年に横浜市の市議会議員選挙に出馬して当選した。当時の市長は元自治事務次官の細郷道一であったが、平成2年に急逝。そこで菅は、元建設事務次官の高秀秀信を市長に推して当選させると、人事を含む市政の重要案件にも関与することになる。

 この頃、横浜は戦後東京の近郊都市として発展したが、これは郊外の住宅地であり、中心市街地は交通をはじめ社会インフラが不足していた。横浜は、もともと関内や元町が中心地であったが、その入り口となる横浜駅が少し離れていて中央駅として機能しておらず、またしばしば駅の場所を移したため、中心地市街地に対する一般の人の印象は希薄であった。そこで、新しい都心を整備する発想で、高島埠頭や国鉄の高島貨物駅の跡地や三菱重工の造船所を移転した港湾地区の186haに「みなとみらい21」を建設することになる。昭和58年に住宅・都市整備公団(現都市再生機構)が事業主体となって事業に着手した。

 この新都心には新しく地下鉄の「みなとみらい21線」が建設されることになるが、当初は国鉄の横浜線が直通することになっていた。しかし昭和62年の国鉄の分割・民営化があり、国鉄が事業に関与することが難しいということになって、代わって東急の東横線との直通が決定し、平成元年3月に横浜市、神奈川県、東京急行電鉄、日本開発銀行が出資して、第三セクター「横浜高速鉄道」が設立された。

市議会での質問

 は横浜市議会議員として、高齢者問題、観光振興から道路、港湾、鉄道などの交通インフラの整備など多方面で市政に尽力した。議会での質問を見ると、とくに鉄道への関心の強さがうかがえる。まだ若い政治家の地域の交通インフラに対する強い思い入れぶりを偲ばせる内容である。

 平成5年第1回定例会(3月3日)での質問概要は次のとおりであった。

東海道貨物線について

菅「湘南ライナーにあっては運行本数11本のうちの3本が,また,湘南新宿ライナーにあっては運行本数4本のすべてが東海道貨物線を利用している。新聞報道等によれば,藤沢駅,茅ケ崎駅においては東海道貨物線の旅客利用に向けてホームを設置し,それぞれ平成5年度,平成6年度に停車させることがJR東日本と両市の間で合意をされたとのこと。本市の副都心であり,またターミナル駅でもあります鶴見,戸塚を初め,保土ケ谷区内,さらには貨物別線の建設当時の経過などを踏まえて,羽沢などのこうした4駅を中心に湘南ライナー,湘南新宿ライナーを停車させるべきと考えます」と、市長の見解を質した。

臨海部貨物線について

菅「臨海部貨物線は,桜木町からみなとみらい21地区,神奈川臨海部を経由し,鶴見で東海道貨物線に合流しております。みなとみらい21地区において当貨物線の一部を新年度にも地下化する工事が予定されておるようであります。そこで,みなとみらい21計画の進捗にあわせて,臨海部貨物線の旅客線化に向け,JR東日本との間で本格的な協議を開始する時期に来ていると考えますが,市長の見解を伺います。」

神奈川東部方面線の事業化について

菅「平成3年6月には本市と県,川崎市の3団体が共同で建設準備事務所を設置し,今日まで精力的に調査を行っている。神奈川東部方面線は,二俣川から川崎まで約20キロ以上に及ぶ長大な路線であることなどから,整備区間を2段階とし段階的に整備を行っていくとのことでありますが,本市においては第一段階として二俣川-新横浜-大倉山間を先行的に整備するということであります。相鉄線が神奈川東部方面線に直接乗り入れることができれば,旭区,瀬谷区,泉区等の相鉄線沿線地域からの新幹線アクセスが著しく改善をされ,市民の新幹線利用が大変便利になるものと期待をしております。(「そうだ」と呼ぶ者あり)」特に,この第一段階の区間については,県,川崎との間にさまざまな調整が必要かとは思いますけれども,運政審答申の平成12年開業に向けて,本市が指導性を発揮し早期事業着手を目指すべきと考えますが,市長の見解を伺います。」

みなとみらい21線の延伸について

菅「みなとみらい21線については,みなとみらい21地区から元町までの第1期区間において昨年11月事業着手され,また,横浜駅からみなとみらい21地区の第2期区間についても都市計画決定に向けての調整を行っているところでありますが,市長は昨年11月のみなとみらい21線の起工式の際,元町以遠への延伸について積極的に取り組む旨言及をされておられましたが,本牧を初めとする市民の利便性向上のために,また,みなとみらい21地区への都市機能集積を促進する上からも,みなとみらい21線の元町以遠の延伸を急ぐべきと考えますが,市長の見解を伺います。」

ドリームモノレールの再開について

菅「新聞報道によれば,昭和42年の運休以来長年の懸案事項でありましたドリームモノレールの再開がいよいよ軌道に乗ってきたよう」です。「本市としても交通不便地域対策の観点から,事業者でありますドリーム開発や関係者に対して早期再開を働きかけると同時に中間駅の設置についても積極的に取り組むべきと考えますが,市長の見解を伺います。(私語する者あり)」

 続いて、市営地下鉄1号線、4号線、相鉄いずみ野線の延伸、こどもの国線通勤線化へと質問を続けた。

 この内容を見る限りでは、新聞報道を引用するなど、かならずしも鉄道事業者と密接に連絡を取り合っている様子がうかがえない。議会での質問は、選挙区内での市民や企業の要望をベースに組み立てられるのが通例であるが、内容は総花的で、かならずしも選挙区内の話題にかぎらず、全市にかかわる課題が取り上げられていた。

 また、神奈川東部方面線については、この時点では大倉山から川崎に抜ける路線であり、二俣川でも市として相鉄線との直通について要望するという段階であった。当の相模鉄道は、東京への通勤客が新線に移ることで減収になるとして、国による手厚い支援策を条件とするなど、消極的であった。その後、相鉄、東急東横線との直通が決定し、相鉄から東横線を介して東京の都心に直通する計画に変わっていくことになるが、平成5年の時点では、単なる二俣川と川崎の間を結ぶ地下鉄でしかなかった。

 ということは、菅は小此木議員の秘書として鉄道会社との付き合いを深めていたというが、少なくとも東海道貨物線でJR東日本からの負託を受けたとは思えないし、神奈川東部方面線で相鉄や東急からの要望を受けてもいなかったようである。

 その後、は平成8年に衆議院議員に当選して国政に参加することになったが、平成12年には運輸政策審議会答申第18号で東部方面線の大倉山での東横線直通が記載され、平成17年には都市鉄道等利便増進法を制定して、国による都市鉄道整備に対する支援制度が立ち上げられ、相鉄・JR直通線と相鉄・東急直通線が認定された。そもそも相鉄とJRとの直通運転については、この時に初めて公表されたので驚かされた記憶がある。その背景には政治家の働きかけがあったことが推測されるが、詳しくはわからない。しかし、菅はJR東日本と親密な関係があった。

 菅は衆議院議員選挙では、JR東日本の松田社長(平成5年~12年社長)の支援を受けて当選し、その後も恩義に感じていたという。国鉄が分割・民営化してJRが生まれたが、菅が秘書として仕えた小此木は国鉄改革にかかわり、菅も、松田昌士、葛西敬之、井手正敬の国鉄改革派の3人と交流があった。松田がJR東日本、葛西がJR東海(平成7年~16年社長)、井手がJR西日本(平成4年~9年社長)に配属され、のちにそれぞれ社長に就任した。

 菅が、もともと運輸・建設族の小此木の秘書として、横浜で営業する鉄道各社と付き合いがあった頃は、相手はまだ若手の幹部職員であった。しかし、平成14年に国土交通大臣政務官に就任するころには、昇進して社長になっている者もいた。たとえば、平成9年に京浜急行の社長に就いた小谷昌は、菅の重要な後援者となった。

JR東日本との関係

 平成10年、旧国鉄を承継する国鉄清算事業団が廃止されるのに伴い、国鉄の清算事業団の事業を日本鉄道建設公団に引き継ぐために、政府は、国鉄債務処理法案を作成して、国会への提出を目指した。しかし、この法案には国鉄債務の一部をJRに負担させることが含まれていたため、一斉に野党が反対した。自民党のなかでも、菅を含む一部の議員が反対し、JRの追加負担を削除することを求めた。

 しかし、この時点での国鉄債務は、国鉄改革時から増えて28.3兆円に達していた。JRにも3600億円の負担を求めなければ処理できない規模であった。これに対して党の幹部のなかにも、梶山静六、亀井静香、河野洋平、粕谷成元が党の総務会の場で反対するものが現れたため、最終的にJRの追加負担額を1800億円に圧縮したうえで、実際には日本鉄道建設公団が代わって負担することに落ち着き、修正案が作成された。

 修正案が国会に提出され、10月6日の衆議院本会議で賛否の投票が行われたが、自民党の菅義偉ほか小此木八郎、河野太郎、中野正志、平沢勝栄らが、会議には出席したものの棄権した。いずれも当選1回の若手議員で、JRに近い政治家であった。

横浜IR誘致

 また、菅は、平成24年12月から安倍首相の下で内閣官房長官を務めた。そのなかで重要な政策の一つに特定複合観光施設(IR)の設置があった。統合型リゾートと呼ばれ、ホテルや会議場を中心にカジノを設けるというもので、日本の国際化を支えるために、大規模な国際会議や展示会が開ける施設が必要という発想である。しかし、今まで認められなかったカジノを公認するということから、多方面から反対を受けているところである。

 平成25年に自民党、日本維新の会、生活の党からIR推進法案が提出されたがこの時は廃案。平成27年に再度提出されて可決。翌年特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律、略して「IR推進法」が制定された。

 これに対して、横浜市の林文子市長は、IRの横浜への誘致を表明することになるが、その背後に菅官房長官がいたとする報道もみられる。一方では、小此木議員と親密であり、菅も「不即不離の関係」と表明していた「ハマのドン」こと藤木幸夫横浜港ハーバーリゾート協会会長は、強く反対している。

 横浜にIRを誘致することは、東京に圧倒されてきた国際的なビジネスセンターの役割を挽回する好機である。地元の大手私鉄として、羽田空港と横浜を結ぶ唯一の鉄道路線を持つ京浜急行にとっては、グループ内のホテルやレジャー部門のビジネスチャンスにつながることが期待された。そこで、このIR誘致に熱心に取り組むことになるが、同社は菅の有力な支援者であった。

 くりかえすが、企業が政治家に働きかけることは問題にはならない。背後で金銭が動いたり便宜供与があるならば、問題とされるべきである。

義理と人情

 さまざまな財界団体が政治家に働きかけて、企業の工場建設の前提となる社会資本整備を求めた。ときに大金が飛び交うこともあった。政治家とつながることで利権が発生し、利益を政治家に還元する構造が出来上がり、義理と人情の裏社会が構築されていった。

 日本の政治は、いわば「任侠」の世界ではないかと思う。任侠といっても反社会勢力の話ではない。儒教の「仁義」を重んじて、困っている人を助ける自己犠牲の精神である。

 政治家が政策をつくるわけではなく、政策は官僚に任される。政治家は、支持者からの陳情を受けて、それを官僚に伝えるのである。政策面での知識は二の次で、個人的なつながり、人情の世界での関係が重要となり、義理を果たすために「汗をかく」ことになる。

 義理人情の政治家に、自民党副総裁を務めた大野伴睦、戦後一時衆議院議長についた西武鉄道の総帥・堤康次郎、自民党の利益誘導政策を確立した田中角栄が思いつくが、菅も義理と人情の政治家であり、政策立案よりも請託をうけて政策へとつなげていく調整の政治家であるように思う。

 ただ、大野、堤、田中とは異なり、政治家の基本的要件であるコミュニケーション能力に劣り、政策決定のプロセスが見えないまま突然決定事項を発表し、十分な説明を行わないなど、国民からの信頼を得ようとする努力が見られないところが、総理大臣としての資質が疑われているところである。

 また、弟の菅秀介が製菓店を廃業したのち、JR東日本の子会社の千葉ステーションビルに就職することになるが、背後で菅の仲介が疑われること、さらに総務大臣に就任した際に、長男の正剛を大臣秘書官に付け、間もなくその能力に見切りをつけたのか、後援者の経営する東北新社に就職させ、それがスキャンダル話に発展するなど、身内との関係でダークさを感じさせることが重なり、菅自身の人格的な問題までも疑われることになっている。

佐藤信之/交通評論家、亜細亜大学講師

佐藤信之/交通評論家、亜細亜大学講師

交通評論家、亜細亜大学講師、Yahoo!オフィシャルコメンテーター、一般社団法人交通環境整備ネットワーク相談役


亜細亜大学で日本産業論を担当。著書に「鉄道会社の経営」「新幹線の歴史」(いずれも中公新書)。秀和システムの業界本シリーズで鉄道業界を担当。

 4月19日『鉄道と政治、政友会、自民党の利益誘導から地方の自立へ』中公新書発売。

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