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近代皇室の恋愛と結婚を考える〜明治天皇から悠仁さままで〜

眞子さま“駆け落ち婚”考…歴史学者が見る「内親王の結婚」明治天皇の4人の娘たちと宮家

文=小田部雄次/歴史学者
【確認中】歴史学者が語る「明治の御代の“女性宮家”」…明治天皇の4人の娘たちに見る内親王の結婚の画像1
日本の第122代天皇・明治天皇。皇后との間には子宝に恵まれず、側室との間に15人の子どもをもうけ、後の大正天皇となる嘉仁(よしひと)親王も側室が産んだ。写真は1873(明治6)年に撮影されたもの。(写真はWikipediaより)

 2021年9月11日、秋篠宮妃の紀子さまは55歳の誕生日に先立ち、宮内記者会が提出した質問に文書で答え、長女の眞子さまの結婚について「長女の気持ちをできるだけ尊重したい」と回答した。個人を尊重する現代社会では、「気持ちの尊重」はもっとも大事であり、理想的な回答ともいえる。しかし、将来の天皇の長女の結婚であることを考えると、「気持ちの尊重」だけでいいのだろうかという疑問もある。小室氏と結婚したいという「気持ちの尊重」だけが優先されていて、多くの人々の祝福を得られないまま、「駆け落ち」婚の形になっているのも確かなのである。

 一体、結婚は「気持ちの尊重」だけで十分なのだろうか。そこには何か欠けているものがあるのではないか。とりわけ、国の柱であり、国民を代表する「顔」でもある天皇家の結婚が、「気持ちの尊重」だけで成り立ち得るのか、考える意味はあろう。明治以後の天皇家の恋と結婚の問題をおさらいしながら、現代における天皇家の恋と結婚が負っている暗黙の「常識」や「タブー」について考えてみたい。

明治天皇の娘で成人したのは4人、実母は4人とも明治天皇の側室であった園祥子、そして適齢男子皇族は6人

 明治以後の天皇の娘(内親王)たちの結婚を振り返ってみると、戦前はみな皇族に嫁いだ。皇室に育った女子が、一般民間に嫁いでその後の暮らしをやっていけるかどうか、父親である天皇は当然、心配した。天皇の娘をもらう側でも、ことの重大さは知っていた。

 ちなみに、明治天皇には15人の子どもがおり、10人が女子だった。しかし女子で成人したのは4人で、ほか6人はみな早世した。成人して適齢期を迎えたのは、

・1888(明治21)年9月30日生まれの常宮昌子(つねのみや・まさこ)
・1890(明治23)年1月28日生まれの周宮房子(かねのみや・ふさこ)
・1891(明治24)年8月7日生まれの富美宮允子(ふみのみや・のぶこ)
・1896(明治29)年5月11日生まれの泰宮聡子(やすのみや・としこ)

である。

 それぞれの年齢差は2歳、1歳、5歳であった。実母は4人とも明治天皇の側室であった園祥子(権掌侍、のち権典侍)。

 明治天皇はこの娘たちを皇族に嫁がせようとした。上流華族はおろか、中流華族、まして一般市民(当時は臣民)に嫁がせることは、考えになかった。皇族に嫁げば、身分も資産も安定するからである。そもそも戦前の場合、内親王は結婚後も内親王の称号を持つことができた。臣民の家の妻を「内親王」と呼ぶのでは、周囲もやりにくいだろう。

 当時、明治天皇の4人の娘たちが嫁ぐにふさわしい適齢の男子皇族の数は6人いた。

・1882(明治15)年9月22日生まれの北白川宮恒久王(きたしらかわのみや・つねひさおう)
・1887(明治20)年4月18日生まれの北白川宮成久王(きたしらかわのみや・なるひさおう)
・1887(明治20)年9月22日生まれの有栖川宮栽仁王(ありすがわのみや・たねひとおう)
・1887(明治20)年10月2日生まれの久邇宮鳩彦王(くにのみや・やすひこおう)
・1887(明治20)年12月3日生まれの久邇宮稔彦王(くにのみや・なるひこおう)
・1888(明治21)年8月12日生まれの北白川宮輝久王(きたしらかわのみや・てるひさおう)

である。恒久が最年長で、皇女の最年長の昌子より6歳上。昌子と輝久は同年で、成久、栽仁、鳩彦、稔彦の4名は昌子の1歳上である。

明治天皇、房子内親王周宮を栽仁王有栖川宮に婚嫁せしめんと欲す

 幕末当時、宮家には伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の4親王家があったが、幕末から明治にかけて桂宮と閑院宮が断絶した。ただ、閑院宮は伏見宮から載仁親王が入り継承された。このため、明治初期には有栖川宮のほか、伏見宮と、伏見宮から分かれた久邇宮、閑院宮、北白川宮などと、さらに久邇宮から分かれた賀陽宮、梨本宮などがあった。そして、明治天皇の結婚相手と目された、恒久と成久は北白川宮の長男と次男、栽仁は有栖川宮の継嗣、鳩彦と稔彦は久邇宮の5男と6男だったのである(夭折者をのぞく)。

 年齢順にいけば、恒久と昌子、成久と房子、栽仁と允子、鳩彦と聡子という組み合わせが想定できた。皇室の婚姻には幼いうちに婚約してしまう事例も多く、『明治天皇紀』の1893(明治26)年11月1日に「房子内親王周宮を栽仁王有栖川宮に婚嫁せしめんとの叡旨(えいし)あり」とある。「叡旨」とは「天皇の考え」の意である。明治天皇は娘の房子を皇族である栽仁王と結婚させたいと思い、有栖川宮家の当主である熾仁(たるひと)親王に伝えたのである。栽仁の実父は有栖川宮威仁(たけひと)親王であり、熾仁は子がいないままこの翌年に亡くなって弟の威仁が宮家を継ぐのだが、当時はまだ熾仁が当主であったため、天皇は栽仁の伯父である熾仁に婚約の意を告げたのである。もっとも、この時、栽仁は6歳、房子は3歳であり、結婚はまだまだ先のことであった。

 この話は、その後、1906(明治39)年1月9日の『明治天皇紀』に、「昌子内親王を以て恒久王に、允子内親王を以て栽仁王に配せんとし、内旨を侍従長侯爵徳大寺実則に伝へたまふ」と出てくる。威仁が「内親王一人を得て其嗣栽仁王の妃と為さんと欲し」、伊藤博文らを介して内々に請願していたのである。明治天皇は、日露戦争中は返事をしないでいたが、戦争も終結したので、内々にその命を下したのである。

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有栖川宮威仁親王の第一王子、栽仁王。継嗣たる栽仁王が満20歳で薨去し、1889年に施行された皇室典範では養子が禁じられているため、有栖川宮は廃絶の危機に瀕した。写真は薨去の1年前、1907年頃に撮影されたもの。(写真はWikipediaより)

明治天皇は娘たちの嫁ぎ先の安定のため、恒久に竹田宮、鳩彦に朝香宮、稔彦に東久邇宮の称号を与えた

 ところがなんと、結婚相手が変わってしまったのである。

 はじめ栽仁は房子と婚約していたが、13年後には、房子の妹の允子と結婚することになった。しかも、房子の姉の昌子は恒久と結婚するという。房子については、なんの話も出ていない。13年も経てば、内部事情も変わるのであろうが、お互いの恋愛感情はどうなっていたのだろう。というか、当時はそんなものだったのだろう。

 話はこれで終わらない。

 栽仁は1908年3月、海軍兵学校卒業間際に盲腸炎となり術後に容体が悪化し、4月7日に満20歳で他界してしまう。このため、允子は鳩彦と結婚することになる。

 この間、1907年2月26日、故北白川宮能久親王妃の富子と、故小松宮彰仁親王妃の頼子とが相談し、北白川宮輝久を皇族のまま小松宮家を継がせようとしたが、皇族の養子は認められていなかったため、輝久は臣籍降下して侯爵となり、小松宮家の祭祀を継承した。

 つまりは、6人いた適齢の皇族男子のうち2人が候補からはずれたのである。残ったのが、北白川宮家の恒久と成久、久邇宮家の鳩彦と稔彦であった。年齢差は、恒久が5歳年長で、ほか3人は同年であった。そのうち成久が一番早く、鳩彦は半年遅かった。しかも異母兄弟である鳩彦と稔彦は2カ月違いであり、双子のような存在でもあった。

 とはいえ、当時、宮家当主であったのは、成久だけであった。先代の能久親王が1895年の台湾接収で戦病死し、成久が若いながらも宮家当主となっていた。恒久は成久の兄でありながらも、庶子であるため宮家を継げなかった。鳩彦と稔彦は、久邇宮家の5男と6男であり、兄たちはそれぞれ賀陽宮、久邇宮、梨本宮、久邇宮別家の当主となっていた。

 このため、明治天皇は娘たちの嫁ぎ先の安定のため、恒久に竹田宮、鳩彦に朝香宮、稔彦に東久邇宮の称号を与え、独立した新宮家の当主としたのである。宮内庁編『皇室制度史料 皇族四』には「竹田宮は北白川宮能久親王の王子恒久王が明治天皇の皇女昌子内親王との結婚に先立ち賜った宮号で、朝香宮は久邇宮朝彦親王の王子鳩彦王に、東久邇宮も同親王の王子稔彦王に賜った宮号で、両王は間もなく明治天皇の皇女と結婚している」とある。1906年(明治39)のことであった。これで、宮家数も有栖川、華頂、賀陽、閑院、北白川、久邇、梨本、東伏見、伏見、山階の10宮家(なお明治初期にあった桂、小松はすでに断絶し、のちに有栖川と東伏見も断絶する)から、朝香、竹田、東久邇を加えた13宮家となった。

眞子さま“駆け落ち婚”考…歴史学者が見る「内親王の結婚」明治天皇の4人の娘たちと宮家の画像1
※2021年10月1日現在の状況をもとに作成したものです。

竹田、朝香、東久邇の3宮家は、いわば明治天皇の娘のために設置された女性宮家であった

 そして、これら皇族男子の年齢順に、明治天皇の皇女たちもそれぞれ、昌子、房子、允子、聡子の年齢順に嫁いだのである。それも、昌子は1908年、房子は1909年、允子は1910年、聡子は1915年(この間、1912年の明治天皇崩御と1914年の昭憲皇太后崩御があった)と、年齢順に結婚していったのである。

 ところで、もし明治天皇の10人の娘たちがみな成人していたら、どうなっていただろうか。年長の常宮昌子の前には稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)、梅宮薫子(しげこ)、滋宮韶子(あきこ)、増宮章子(ふみこ)、久宮静子(しずこ)の5人の娘がいたし、年少の泰宮聡子の3歳下には2歳で夭折した貞宮多喜子もいた。これらの娘たちの嫁ぎ先のために宮家を作った場合、そのお相手さがしも大変だったろうし、宮家設立のための経済的負担も大変だったろう。当時の宮家はそれぞれ東京市内に1万坪ほどの本邸宅地を持ち、子女数に応じた皇族費も出ていた。経済負担を減らすために、1920年(大正9)に「皇族の降下に関する施行準則」が裁定され、宮家の当主の直系子孫以外は皇籍離脱をする定めも決められたほどである。宮家増大は、難しい問題になっていた。その経済的負担などを考慮した場合、皇族は数が多すぎてもやっかいだったのだ。

 いずれにせよ、明治天皇の娘たちの結婚には、皇族、それも身分や家政が安定した宮家当主に嫁ぐべきであるという明治天皇の意思が反映された。そのために、すでに旧皇室典範が制定され、近代皇族制度が確立し安定した後の明治30年代になって、新たに3宮家を設置したのである。宮家当主に嫁ぐことによって、4人の皇女たちは身分的にも経済的にも、従来通りの保証を確保できたのである。竹田、朝香、東久邇の3宮家は、いわば明治天皇の娘のために設置された女性宮家であった。つまり、この3宮家の子孫はみな明治天皇の女系なのである。

 ところで、北白川宮家をふくむこれら4宮家の夫婦仲はどうであったのだろうか。

 自由恋愛での結婚は、当時の社会状況からしても、皇室の慣例からしても想定できない。竹田宮はスペイン風邪で早世してしまい、夫婦生活も短かった。北白川宮や朝香宮夫妻などは、ともに欧州旅行を楽しむ仲であった。どうも、東久邇宮だけは、内親王との夫婦生活に満足していなかった。東久邇は「嫁さんとは式場で初対面」と自著『やんちゃ孤独』(1955年、読売文庫)で書いているが、「嫁さん」の顔を知らずに結婚するのは、当時の上流階級としては珍しくない。双方の親が先に決めて、その後に本人たちに伝えるのだ。そのためか、自由な気風を好む稔彦は、この結婚に不満があり、結婚後、皇族軍人として欧州に留学するのだが、妻子を置いてパリに7年もいて、社交界で浮名を流した。帰国したのは大正天皇が亡くなった後で、そのときも皇籍離脱を主張してごねた。もっとも、戦後になって、皇族の離婚が話題になったときも、離婚はしなかった。

 ある男系論者の友人に、自由恋愛で結婚することと、生涯円満に添い遂げられることとはまったくの別問題であり、結婚して生活を重ねてみないとお互いを理解しあえないのも事実だろう、その意味では、皇族女子と旧宮家の男子との見合い結婚もおかしくはないはずだ、燃えるような恋をして離婚する例も数多くある、と言われたことがある。好きでもない相手と結婚させられるのは、今では時代錯誤だが、あるいは眞子さまにそうした話があったのかもしれないとも思った。

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旧皇族・陸軍大将の東久邇宮稔彦王。第二次世界大戦後には、皇族として初の内閣総理大臣に就任した。写真は聡子内親王との結婚前の、1910年頃に撮影されたもの。(写真はWikipediaより)

上流階級の結婚に存在する自由恋愛への抵抗感、そして言語化されない常識やタブー

 戦後、自由恋愛が常識となり、皇室もその影響のなかにある。皇族男子のお相手が次々と一般国民からも選ばれるようになり、皇室の自由恋愛が、一般国民にも広く支持されるようになった。そうした傾向は、天皇の娘たちの嫁ぎ先にもみられるようになって今日に至っている。冒頭で挙げた紀子さまの言葉「気持ちの尊重」は、そうした流れに沿った言葉でもある。

 そんななか、家のつりあいなどを尊重する旧家や上流階級の間では、まだ自由恋愛への一定の抵抗感があるのも確かだ。眞子さまの結婚問題をみるに、お相手との生活格差のほかにも、まだまだうまく言語化されない常識やタブーの問題があるようだ。そうした常識やタブーは憲法や皇室典範の条文には書かれていない。歴史のなかで積み重ねられてきたものなのだ。憲法や皇室典範の条文だけに頼ると、大きな間違いを犯すかもしれないのだ。

 そもそも皇室典範第12条には「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と結婚したときは、皇族の身分を離れる」とあり、結婚相手の身分や資産はもとより、その職歴も家族構成も問うてはいない。つまり現在の法令では、憲法24条の「結婚の自由」が適用されなくても、眞子さまは誰と結婚してもよく、結婚すれば皇室を離れて一般市民となれるはずなのだ。

 憲法と皇室典範の条文だけみれば、眞子さまの結婚に違法性はない。しかし、皇室も、宮内庁も、多くの国民も、これを許される結婚とはみていない。天皇家の恋と結婚の常識とタブーに触れたからである。ではどんな常識とタブーにふれたのだろうか。天皇家の恋と結婚には、どんな常識とタブーがあるというのだろうか。

 たとえば、皇室と外国人との結婚の問題などは、どうなのだろうか? もし眞子さまがイギリス貴族のどなたか、あるいはアメリカ財閥のどなたかと恋愛結婚するのであれば、国民はどう反応するだろうか? 案外、歓迎の声が上がるかもしれない。しかし、皇位継承者である悠仁さまがイギリス貴族やアメリカ財閥の女性と結婚すると主張したら、歓迎の声が上がるだろうか? 常識やタブーは、時代や状況のなかで変わるからだろう、明瞭なようで、不明瞭だ。

 では眞子さまはどのような常識やタブーを侵したのだろうか? 次回以後、近代の天皇家の恋と結婚をめぐるいくつかの事例のなかで、常識やタブーの変遷について考えてみたい。
(文=小田部雄次/歴史学者)

小田部雄次/歴史学者

小田部雄次/歴史学者

1952年生まれの歴史学者で、静岡福祉大学名誉教授。専門は日本近現代史。皇室史、華族史などに詳しく、著書に『皇族 天皇家の近現代史』(中公新書)、『肖像で見る歴代天皇125代』(角川新書)、『百年前のパンデミックと皇室』(敬文舎)、『皇室と学問 昭和天皇の粘菌学から秋篠宮の鳥学まで』(星海社新書)などがある。

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