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三菱財閥の礎を築いた男・岩崎弥之助「国家のために経営せよ」…兄・弥太郎と正反対の弟

文=菊地浩之
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三菱財閥の礎を築いた男・岩崎弥之助「国家のために経営せよ」…兄・弥太郎の“不肖の弟”の画像1
三菱の創業者・岩崎弥太郎の実弟で、三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助。カリスマ的な弥太郎の死後、後を継がされる……凡人なら重責で潰れそうですが、弥之助もまた兄に劣らぬ秀才だったようで、実は三菱財閥の基礎を築いたのは弥之助のほうだった。(画像はWikipediaより)

岩崎弥之助、兄・岩崎弥太郎のあとを継ぎ、三菱と共同運輸との“死闘”を終結さす

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第37回(11月28日放送)では、岩崎弥太郎(演:中村芝翫)が壮絶な死を遂げた(史実では1885年2月7日のこと)。弥太郎は死に際し、「岩崎家は古来嫡統を尚(たっと)ぶの家なれば、久弥を岩崎家の嫡統とし、弥之助はこれを輔佐し、小早川隆景の毛利輝元を輔佐する如くせよ」との遺言を残した。自身の長男・岩崎久弥(1865~1955年)を三菱の後継者として、弟の岩崎弥之助(演:忍成修吾)はその補佐にまわれ、ということだ。

 しかし、事情はそれを許さなかった。久弥はまだ20歳。しかも弥太郎に似ず温厚篤実な性格で、共同運輸会社と“切った張った”の死闘を繰り広げるには、いかにも力不足だ。そこで、弥太郎の16歳年下の弟・岩崎弥之助(1851~1908年)が2代目社長となった。

 渋沢栄一らの画策で誕生し三井財閥の後押しを受ける共同運輸会社と三菱との死闘は、弥太郎の意地もあって引くに引けない状態にあったが、弥太郎が死去すると、共倒れを危惧して妥協しようという冷静な経営判断が浮上してくる。

 三菱の重役・川田小一郎は、井上馨(演:福士誠治)や伊藤博文(演:山﨑育三郎)と談判して合併の合意を取り付け、1885年12月に両社を合併して日本郵船会社とした。これによって、およそ3年にわたる三菱と共同運輸会社の死闘に幕が閉じられたのであった。

16歳下の弟・岩崎弥之助が三菱の社長になるまで…兄の勧めで米国留学、後藤象二郎の長女と結婚

 岩崎弥之助は、嘉永4年1月8日(1851年1月29日)に土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)の岩崎弥次郎・美和夫妻の次男として生まれた。

 兄の弥太郎も勉学に秀でていたが、弥之助も極めて優秀で、土佐藩校に入学すると学才が認められて給費生となり、扶持米を支給されるほどであった。

 明治維新後、弥之助は兄・弥太郎を頼って大阪に出た。弥太郎は教育熱心で、大阪の土佐藩邸に外国人を招致し、藩邸の若者に英語を学ばせた。弥之助はこの英語塾で英語を学び、1872年4月に米国に留学。弥太郎は外国商館との貿易事業で出世したこともあり、欧米視察に出かけ知見を高めようと志したが、多忙で果たせなかった。そこで、代わりに弥之助を外遊させたのだという。

 翌1873年、弥太郎は商人として生きることを決意し、三菱商会の社主に就いた。弥太郎は手紙を送って弥之助に帰国を促し、腹心として活躍することを望んだ。弥之助は帰国し、ただちに三菱商会に入社した。

 1874年、弥之助は後藤象二郎の長女・早苗と結婚した。弥太郎が直接後藤家を訪ねて懇請すると、後藤も弥之助ならば異存はないと即座に承知したのだという。

 1875年に三菱が半官半民の日本国郵便蒸汽船会社を吸収合併し、郵便汽船三菱会社と改称すると、弥之助は副社長に就任、兄・弥太郎を支えた。

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画像は1920年に撮影された、丸の内の三菱財閥本社。三菱は「丸の内の大家さん」といわれるほど、丸の内界隈のビルを多く所有している。(画像はWikipediaより)

岩崎弥之助、社長就任後に事業を発展的に整理し、三菱財閥の「銀行・鉱山・造船」の三本柱を見事構築す

 弥之助は社長に就任すると、上記の通り、最大の難事業であった共同運輸会社との死闘を収拾した。合併によって日本郵船会社が成立すると、弥之助は同社に海運関係の資産一切を移譲し、従業員2197名のうち、ほぼ4分の1にあたる515名を転籍させた。

 弥之助は海運業から手を引き、弥太郎時代から多角化していた海運以外の事業で三菱の再構築を図った。

 三菱の多角化は弥太郎時代にすでに始まっており、その特徴は海運業を起点として拡がっていることにある。

 明治初期の船舶燃料はすべて石炭であったので、三菱は鉱山買収を進めた。重役の川田小一郎は、戊辰戦争の際に官軍として住友家所管の別子銅山を接収した経験があり、鉱山経営に旨みがあることを知っていた。そのため、鉱山買収に積極的だったという。具体的には、新宮藩から牟婁郡の炭坑採掘権を譲渡され、高梁藩から吉岡鉱山(現在の岡山県に所在)を買収。のちに三菱財閥の鉱山事業の柱となる高島炭坑(現在の長崎県に所在)は、1881年に後藤象二郎から買収している。これらの鉱山事業が三菱鉱業、現在の三菱マテリアルに繋がっていく。

 また、海運業に船舶修理は付き物であり、横浜に造船修理工場を建設。さらに、1884年に官営長崎造船所を借り受け、1887年に払い下げを受けた。これが三菱造船、現在の三菱重工業の母体となる。

 一方、1885年に旧臼杵藩士が設立した第百十九国立銀行が破綻すると、弥太郎の姪婿で重役の荘田平五郎(しょうだ・へいごろう/旧臼杵藩士)が同行の救済に動き、1885年5月に三菱に組み入れた。これが現在の三菱UFJ銀行に繋がっている。

 こうして1880年代に、のちに三菱財閥の柱となる銀行・鉱山・造船の基礎が築かれるのである。

 1886年、弥之助は岩崎家事務所を開き、これを「三菱社」と称して、上記事業の積極的な展開を図った。現在の三菱グループ企業は、この三菱社を母体としている。三菱財閥を創ったのは弥太郎だが、現在の三菱グループの基礎を創ったのは弥之助なのだ。

 さらに、明治政府が陸軍用地だった丸の内の広大な土地を払い下げようとするが、代金があまりに巨額だったために買い手が付かなかった。そこで、大蔵大臣・松方正義が弥之助を呼んで、150万円で押しつけようとした。欧米視察中の荘田平五郎がその話を聞き(現地の新聞で知ったとも、弥之助に相談されたともいう)、ロンドンのビジネス街のような近代的オフィス街を建設すべきだと、弥之助に購入を進言した。かくして、1890年に現在「三菱村」と呼ばれる丸の内一帯の土地を購入したのだ。当時、丸の内は藪だたみの荒れ地だったので、「こんな広い場所を買って、いったいどうなさるのか」と弥之助に訊いた者がいた。弥之助が「ナニ、竹を植えて、虎でも飼うサ」と言い放ったという。

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岩崎弥太郎の長男で、三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥。29歳の若さで社長業を叔父・弥之助から引き継いだ。眼光鋭い感じが父親譲り? (画像はWikipediaより)

岩崎弥之助、兄・弥太郎の子、久弥に社長を禅譲し、なんと日本銀行総裁に就任す

 弥之助は自らの役割を、甥の久弥へ繋ぐワンポイント・リリーフと考えていたようだ。

 社長を継ぐと、久弥を米国留学に送り出し、1891年に帰国した久弥を三菱社副社長に任じた。

 三菱社は「岩崎家事務所」の通称であり、その実、会社組織のていを成していなかった。会社の財産と岩崎家の財産が未分離だったのだ。そこで、弥之助は家政改革を図って岩崎家の財産関係を整理するとともに、岩崎家の財産から事業を切り離し、1893年12月に三菱合資会社を設立した。そして、三菱合資会社の社長に岩崎久弥が就任。ここに弥之助は、三菱の社長を甥・久弥に譲って引退した。42歳の若さだった。

 しかし、久弥はまだ29歳と若かったので、新たに「監務」なる後見職を設けて、弥之助はこれに就任。久弥は弥之助の助言に従ったため、弥之助は引退後も三菱の経営に重きを成した。

 そして弥之助は、1896年11月に第4代・日本銀行総裁に就任する。前任者の川田小一郎が日本銀行総裁在職のまま急死したので、総理大臣・松方正義が後任総裁に弥之助を推挙したのだ。

 川田小一郎は――そう、三菱に鉱山経営の旨みを説き、共同運輸会社との合併を演出した――あの御仁である。川田は三菱重役兼務のまま、1889年に第3代・日本銀行総裁に就任したのだが、実はこの川田の日本銀行総裁就任も松方の推薦である。

 長州藩出身の井上馨が、「三井の大番頭」と揶揄されるほど三井財閥に肩入れしていたことは有名である。そこで、薩摩藩出身の松方は三菱財閥と通じて、長州-三井組を牽制しようとしたらしい。

 川田は「威張って威張って威張り通した傑物」で、総裁なのに銀行なんかに出社せず、局長クラスを自邸に呼びつけて業務を行っていた。にもかかわらず、後世の史家からは「歴代総裁中もっとも傑出した大総裁といわれている」(吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論 日本金融政策史の研究』講談社学術文庫)のだから大ビックリである。

 そのあとを継いだ弥之助は金本位制を実施し、日清戦争後の反動不況に手腕を発揮。「岩崎弥之助は三代目の川田小一郎とならんで、大総裁と当時からいわれるほどの人物」で、「実は日本における預金銀行主義の確立者であり、日本の金融史上忘れてはならない人である」(前掲書)と高い評価を受けている。しかし、1898年、大蔵大臣・松田正久に金融政策を批判されると、弥之助は憤慨してスパッと日本銀行総裁を辞任。1904年、弥之助は上あごに蓄膿症を発し、1907年に上顎骨癌腫であると診断され、翌1908年3月25日に死去した。享年57だった。

 晩年、弥之助は一門の長老として子弟を集め、「三菱の事業は一門のために経営するのではない。国家のために経営してゐるのであるから、若(も)し営利のみを考へる者があれば三菱はつぶしてもよいのである。君たちは十分にこのことを承知してゐて貰ひたい」と訓戒していたという(岩崎家伝記刊行会編『岩崎弥之助伝』)。

 なんでも自分のモノにしたがった岩崎弥太郎の実弟とは思えない、実に高邁な思想である(創業当初は弥太郎のようなバイタリティがなければ、三井や住友に互する財閥を一代で築けなかっただろうが)。そして、弥之助の理念は一族を通じて、現在の三菱グループに受け継がれていったのである。
(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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