世界最大の半導体受託製造企業である台湾TSMCが熊本に工場を設置したことが大きな話題となっている。TSMCが大卒の初任給を周辺地域の相場より4割も高くして募集したり、パート従業員等についても高い賃金を設定していることから、周辺地域の時給が上昇している。その結果、地元の企業や工場では、人手が流れたり人材確保難に陥ったり人件費高騰が経営圧迫の懸念が出ていると報じられている。
政府も補助金を出して誘致した格好だが、結局TSMCの工場誘致は地元経済にとってデメリットも大きいのではないのだろうか。第一生命経済研究所経済調査部の首席エコノミスト、永濱利廣氏に解説してもらった。
外圧により進む賃上げ
2023年は40年ぶりの世界的なインフレを受けて、30年ぶりの賃上げが実現した。なかでも衝撃的だったのが、熊本に台湾TSMCが工場設置するにあたり、TSMCが大卒初任給について周辺地域の相場より4割高くして募集するのみならず、パート社員等も高い賃金を設定しているせいで、周辺地域の時給が上昇していることである。
基本的に賃上げは、1.企業業績、2.労働需給、3.インフレ率、の三つの要素から決まるとされており、これまで国内のマクロ環境が整わない限り、なかなか大幅な賃上げの実現は難しいとされてきた。しかし、TSMC熊本工場の大幅賃上げの背景には、海外に比べて報酬水準が低位にとどまっているということがあり、世界水準での競争力と成長力を強化するための措置であろう。
そもそも、日本では労働需給がある程度ひっ迫しても、従来の日本的雇用慣行であるメンバーシップ型雇用の割合が高いことから、労働市場の流動性が低く、海外のように賃金が上がりにくいということが指摘されてきた。しかし、TSMC熊本工場のケースに基づけば、マクロ的な賃上げには効果的だが、一方で地元の企業や工場の経営を圧迫する懸念も出てきている。
マクロ環境は改善が進む
こうした動きは、熊本県内はおろか近隣県にも人材の争奪戦が波及しており、教育現場では、熊本大学での半導体人材育成学科の新設や、九州内高専での半導体教育の拡充が進んでいる。
特に無視できないのが、TSMCの新工場では約1700人が働く予定となっていることである。これにより、近隣では住居が足りない、商業施設が足りない、教育施設が足りないとのことで、直接的な賃上げ圧力で地元企業を圧迫する一方、元来賃上げに最も重要な要素とされてきたマクロ環境には好影響が及んでいることも事実である。
そもそも、県内総生産額が6兆円台の熊本県に、TSMC第一工場関連だけで1兆円規模の投資が入るため、劇的にマクロ環境が好転するのも頷けよう。
地元企業への配慮も必要
同様の動きは、高時給でパートやアルバイトを募集する外資系小売業が進出している地域や、国内半導体工場が新設されている地域等でも起きている。特に、国内工場新設ラッシュで賑わう岩手県北上市等では、地元の工業高校生の多くが新設工場に採用されてしまい、地元企業では人手不足が深刻になっている。
こうしたなかで岸田政権は、賃上げ企業への税制優遇や、人への投資に伴う労働移動の円滑化を通じて賃上げに結びつけようとしている。しかし、TSMC熊本工場の事例を勘案すれば、マクロ環境の長期停滞が続く上に、日本的雇用慣行により労働分配率が高まりにくいなかで最も賃上げに貢献するのは、企業業績でも労働需給でもインフレでもなく外圧といっても過言ではないだろう。
このため岸田政権は、人への投資や成長分野への労働移動を進めることもさることながら、むしろ経済安全保障の強化にも貢献する有力な外資系企業の積極的な誘致や生産拠点の国内回帰を積極的に進め、教育現場の改革も含めて日本の特に地方で働く労働者の待遇の底上げにつなげることにより積極的になることが予想される。
ただ一方で、結局TSMCの工場誘致は地元企業にとっては人材確保難といったデメリットも大きいことも忘れてはならないだろう。こうした状況も勘案してか、政府は2024年度をめどに中小企業のM&Aによるグループ化を後押しする官民ファンドを新設することになっている。狙いとしては、間接部門の共通化を進めることによる人手不足対応や、後継者不足の解決、事業規模拡大による競争力強化等があるようだ。
しかし、熊本等の深刻な状況を勘案すれば、人材確保難に陥るような地元企業を救済するようなM&Aを行った企業へ税優遇する制度等を整備する等の更に手厚い支援策が必要になってくるだろう。