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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

12月にベートーヴェン『第九』が演奏されまくる裏事情

文=篠崎靖男/指揮者

 バート・イシュルはオーストリア皇室、ハプスブルク家の避暑地でもあり、夏になると、当時の世界の貴族や政治家がこの町にやってきて大賑わいになりました。そして、首都では話すことができないような会話が交わされる国際政治の場だったのです。

 余談ですが、作曲家ブラームスも滞在していたことがあったようです。ブラームスはまじめで冗談も言わないようなしかめっ面のイメージの作曲家ですが、実は彼の滞在先は、『こうもり』やワルツの作曲家、ヨハン・シュトラウスの隣でした。『こうもり』の舞台上でも派手に開けられるシャンパンでも飲みながら、2人で大騒ぎしていたかどうかはわかりませんが、楽しく冗談くらいは話していたのではないでしょうか。

 このバート・イシュルは、もうひとつの意味でも大切な場所です。ハプスブルク家も、ただ環境が良いというだけで、ここを大事にしたわけではないのです。ここには、1563年から採取され始めた岩塩があるのです。海に面していないオーストリアにとって塩は死活問題で、帝国の命運を左右するくらい大切です。バート・イシュルの塩は、今でもオーストリアのスーパーマーケットに出回っているくらい豊富で、僕も留学中は使っていましたし、日本にも輸入されて売られているようです。

 さて、この上質の塩が、ハプスブルク家を活気づけたのです。ちなみに、ザルツブルクの“ザルツ”はドイツ語で「塩」という意味ですが、この辺りには、ザルツが付いている地名が多くあります。

 時を同じくして、オーストリアのハプスブルク家と親戚関係のスペイン系ハプスブルク家は、当時発見されて間もなかったアメリカ大陸から大量の銀を獲得し、オーストリア系ハプスブルク家にも莫大な富をもたらしていました。ネーデルランド(オランダ、ベルギー)、イタリア北部地域、南のナポリをも領地とし、世界をわがものにしたような大繁栄ぶりでした。それを今に伝えるものが、ウィーンの王宮前にある美術史美術館の中に多数残されています。ネーデルランドの名匠・レンブラントの絵画や、日本でも人気の高いフェルメール、スペインのベラスケス、イタリアのミケランジェロをはじめ、ハプスブルク家の領地にゆかりある莫大な数の名画が、今もなお鑑賞できます。

 さて、そんなハプスブルク家の終息は、あっという間でした。それは、第一次世界大戦です。この戦争がヨーロッパの王侯貴族社会を終わらせてしまったわけですが、そのきっかけとなったオーストリアのセルビアに対する宣戦布告は、このバート・イシュルで行われたのです。

 さて、今年の忘年会では、一次会に『第九』鑑賞はいかがでしょうか。美酒は飲みすぎると翌日少しつらいですが、素晴らしい音楽は、翌日になっても爽快さを残すこと、間違いありません。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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