暴走できない石原、維新が誤った全国進出計画とブランド戦略
暴走する、つまり自分の政治的な野心に忠実に、まっしぐらに突き進んでいたとしたら、石原慎太郎は首相にもなれたのではなかったか。
●作品から見える政治家・石原慎太郎
作家である石原を分析するとき、政治的な個人史ばかりではなく、その作品も見る必要があるだろう。
一橋大学在学中の1955年に芥川賞を受賞した『太陽の季節』(新潮文庫)。再読して思うのは、主人公のなんともに煮え切らない性格だ。自らが招いた事態のなかで、自らが進んで事態を解決しようとはしない。彼らの風俗は、筆者の過去とはまったく交錯しない世界の出来事であるが、主人公のあいまいな感覚はよくわかる。
戦後の文壇がこの作品に驚愕したのは、その風俗描写ではなく、「もはや戦後ではない」といわれた時代の若者たちが、自分たちの世界を構築する考えがないことのほうではなかったろうか。そうした「アプレゲール」の時代の若者の気分は、第2の敗戦といわれるデフレ経済下の若者と重なり合う。これが石原の人気が高齢者ばかりではなく、若者層に及んでいるゆえんではないか、とわたしは考える。だからこそ、石原の最後の都知事選である2011年選挙では、若者層と女性層からの支持があった。
『太陽の季節』の主人公である竜哉は、恋人の英子を妊娠させるが、日数が過ぎて4カ月となった段階で、通常の堕胎手術では間に合わず、帝王切開の結果として腹膜炎を起こして、死ぬのである。
英子の葬式の直後、ボクシングクラブに所属している竜哉は学校のジムに行く。
「シャドウを終え、パンチングバッグを打ちながら竜哉はふと英子の言葉を思い出した。
“何故貴方は、もっと率直に愛することができないの”
その瞬間、跳ね廻るパンチングバッグの後ろに竜哉の幻覚は英子の笑顔を見た。彼は夢中でそれを殴りつけた」(『太陽の季節』)
もうひとりの石原を発見したいならば、『法華経を生きる』(幻冬舎文庫)である。石原は毎日のように、法華経を読んでいると述べている。法華経の真髄について、石原は次の10点を挙げている。
「相」 そこのあるものの生来の姿
「性」 相をあらわす生来の性質
「体」 その本体から生まれてくるもの
「力」 目にみえない確かな力
「作」 その力がもたらす作用
「因」 すべての現象
「縁」 さまざまな機会の訪れ
「果」 ことの結果
「報」 必ずなにかを残す
「本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」 宇宙の現象すべてを支配する法則
「最後の『本末究竟等』に至る道を、法華経は説く」としている。
こうした石原の法華経に対する深い理解の先には、静かな心の安定はあっても、暴走して、自らの政治的な野心を遂げる意志の力はないのではないか。