文京区の根津に明治時代遊廓があったが、東京大学が隣の本郷にできるというので江東区の洲崎に移転させられたということは前に書いた。じゃあ、きれいさっぱり東大のまわりはお色気が消えたかというと、そんなことはない。今でいうと本郷三丁目の駅から東に言問通りを下っていけば右手に湯島天神があり、地名は湯島となって、その近辺の本郷区内には花街が5つもあったのである。
まず1つは下谷、あるいは池之端と呼ばれる花街。今の湯島の交差点の東側から松坂屋の向かい側に至るまでの歓楽街がそれ。池之端は、古くは下谷区数寄屋町、池之端仲町から本郷区同朋町にまたがる一帯で、本来下谷と同朋町で芸妓組合が異なるが、その後合併して下谷芸妓組合となった。芸妓屋160軒、芸妓400名。料理屋20軒、待合110軒と大規模で、東京のなかでも柳橋、新橋、吉原などに次いで二流の上に位置付けられた。上野の山の精養軒から見下ろすと池之端にずらりと並んだ料亭の明かりが、不忍池に映ってなまめかしかったらしい。ここで遊んだ東大生もいただろう。
かつての料亭で今もあるのは鰻料理の伊豆栄。池之端から本郷側に上ったところにある竜岡町を先日歩いていたら、伊豆栄のために鰻を料理する店を見つけた。
2つ目は湯島天神の南側の天神花街。芸妓屋30軒、芸妓80名、料理屋14軒、待合25軒。周辺には天ぷら屋、すき焼き屋、寿司屋、鳥料理屋などが散在し、旧花街の余韻を残している。古い地図を見ると、旅館だったところがマンションやラブホテルに変わっている。
隣に湯島新花町という町名が昔あったが、これは花街とは関係ない。本当に花畑があった場所である。宝永7年(1710年)、上野の寛永寺の東叡山寛永寺貫主の輪王寺宮の隠居屋敷が置かれたが、宮はまもなく亡くなり、屋敷は廃止され跡地が菜園となり、大根畑、お花畑と呼ばれた。宝暦7年(1757年)、町屋が開かれ、新町屋と呼ばれたので、「新」と「花」を取って新花町となった。
武道の練習と偽り女遊び
3つ目が神田明神のある台地の崖下で、神田三業地。または講武所(こうぶしょ)という。講武所は江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。神田区同朋町、台所町、旅籠町にかけての一帯であり、旅籠町まで来ると今は秋葉原のアニメ街である。花街にしてはいかめしい名前の由来は、安政年間に幕府が鉄砲洲に講武所を設置した際、当時加賀ッ原といわれていた旅籠町に、講武所の附属機関を設けたことによる。
神田明神の隣は湯島聖堂であり、旗本の息子たちが講武所や聖堂に来た帰りに遊んだのが花街発展の最初である。そのうち、講武所に行くと称して花街で遊ぶ者も増えたという。芸妓屋55軒、芸妓130〜140名。料理店10軒、待合21軒。有名な鰻料理店「明神下 神田川本店」はまさにこの花街の旧台所町の位置にある。文化2年(1805)創業の江戸前鰻の老舗であり、加賀藩の料理賄い方であった三河屋茂兵衛が、当時、流行り始めた蒲焼に目をつけ、大根河岸に来る人足たち相手に、よしず張りの屋台で鰻を焼いたのが始まりという。
4つ目と5つ目は以前本連載で紹介した白山と駒込。根津遊廓は根津神社の参道にあったので、東大の北東側の裏手だが、池之端は東大の南東の裏手であり、天神もすぐ近くで、距離的には根津とさして差はない。講武所も駒込も白山も歩いてすぐである。売春のための遊廓と芸者遊びの花街では違うというだけで、勉学に差し障りがあるには違いないが、果たしてどれだけの東大生が遊んだのか。
森鷗外『雁』の舞台は本郷と湯島
森鷗外の小説『雁』は、まさに東大から池之端あたりが舞台で、散歩と小説が好きな人々の格好の散歩ネタになっている。二度映画化されているが、高利貸しの中年男と、無縁坂に住むその妾、そして妾が恋する東大医学部の学生が主人公。二度目の映画の若尾文子主演のほうは、池之端の松源という料亭(架空の名前だと思われる)で若尾が高利貸しと見合いをし、同時に東大生が同窓会の宴会をしている。
妾になったのは父親が貧しい飴細工で、二人で浅草の鳥越の貧乏長屋に住んでいたが、妾になれば娘のみならず、父親もましな家に女中付きで住まわせてくれるからである。父親の家は池之端の仲町という設定。
東大生は本郷で有名だった木造三階建ての下宿・本郷館に住んでいる。小説では学生は鉄門という東大の門の真向かいの下宿「上条」(かみじょう)に住んでいたが、鷗外自身もここに住んでいたらしい。鉄門から無縁坂まではすぐであり、無縁坂を下れば不忍池である。
学生はドイツに留学することになり、妾は失恋する。つまり設定としては『舞姫』以前の学生を描いたことになる。ドイツから来た博士と上野の精養軒で食事をする。また高利貸しの男は、妾に貸した金の利息で仕入れた反物で娘に着物をつくってやるが、その反物の元の持ち主の女が落ちぶれて身体を売るのが柳原。今の御茶ノ水駅から浅草橋までの神田川沿いであり、道端で男を誘う女が集まる場所だった。
下宿屋の増加
映画で学生が住んでいた本郷館がそうであるように、東大があったために本郷に増えたものに下宿屋がある。学生も住むし、出張で東京に来た人が旅館として使うこともあり、本郷区の下宿屋は全盛期の明治40年(1907年)で541軒もの下宿屋があった。神田区にも338軒、牛込区にも362軒があり、同時期がピークである。下宿といっても、旅館を兼ねている所も多く、上京してきた人が1週間だけ泊まる、上野でしばしば開催された博覧会のときだけ泊まる、病院に通院するときだけ泊まる、といった利用のされ方も多かったらしい。今でいうとゲストハウスやウイークリーマンション、マンスリーマンションである。
下宿屋は今はもうほとんど残っていないが、旅館に業態を換えているものはわずかにある。一度その1つに泊まってみたが、庭が立派で都心にいながら行楽気分が味わえる。泊まった旅館は違ったが、下宿屋の造りはしばしば料亭のように中庭のあるかたちである。学生時代、戦後の安い木造モルタルのアパートに住んでいた私からすればずっと豪華である。下宿とはいえ、次代を担うエリートが多く住むわけだから、しっかりした建物が建てられるケースも多かったのであろう。
下宿は堕落の根源
下宿人の属性は男性がほぼすべてだった。本郷、神田あたりは学生が多かったが、京橋、浅草、本所、深川はサラリーマンが多かったらしい。いずれにしろ独身男性ばかりであるから、次第に風紀が乱れることも多かったらしい。
下宿数がピークを迎えつつある頃から、下宿を問題視する論調が増えていった。いわく、「堕落の根源」「学生の堕落期間」「学生を腐敗」させる、「魔窟」「悪書生の巣窟」「魑魅の巣窟」「罪悪の養成所」といった具合である。学生たちは勉強もせず、礼儀作法をわきまえず、街に繰り出して飲食し、歓楽街で遊び、揚弓場(ようきゅうじょう。矢場<やば>ともいう。今で言うとダーツバーだが、実は女性と遊ぶ場所)、銘酒屋(めいしや。酒を並べているが実は売春する)、遊廓で女性を買い、翌朝は寝坊をし、昼寝をして過ごした。
学生が勝手に遊んでいただけではない。下宿屋のほうも、客を集めるためにきれいな女中を置いた。その女中が、住人を誘惑したり、売春の手引きをすることもあった。下宿している者だけでなく、彼を訪問してくる客も誘惑することがあったという。
こういう具合であるから、真に修養を積み、将来成功したいなら、下宿屋などというものは最も選ぶべきではないといわれたのである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)
参考文献
堀江亨・松山薫・高橋幹夫著『日本の近現代における都市集住形態としての下宿屋の実証研究』第一住宅建設協会