実業家の堀江貴文氏は5月6日、千葉県の休業指示に応じない松戸市のパチンコ店を同市の市長が訪問し、営業を自粛するよう求めたという報道について、「もうパニック過ぎて笑えるレベル」とツイートした。
私も同感だ。まあ、市長は仕事だからやったのだろう。だが、同店の前でマイクを手にして「営業やめろ」「帰れ」などと叫び声を上げ、利用客と怒鳴り合いになった複数の男性たちは、私の目には滑稽に映る。そんなことをしても報酬がもらえるわけでもないのに、よくやるなというのが正直な感想である。
第一、店の前に複数が集まって利用客と怒鳴り合いになれば、飛沫感染のリスクがあるのではないか。その結果、自分自身が新型コロナウイルスに感染する可能性もないわけではないのに、そのことには考えが及ばないようだ。
この件に限らず、緊急事態宣言下できちんと自粛しているか監視し、営業中の店舗に張り紙をしたり、ネット上に公開したりして非難する「自粛警察」の活動が活発になっているように見受けられる。
当連載でも取り上げたPCR検査で陽性反応が出たにもかかわらず、高速バスで帰京した「山梨帰省の20代女性」の実名や住所、さらには勤務先や写真までネット上にさらされたが、これも「自粛警察」によるものと考えられる。
「自粛警察」が振りかざす正義の起源は“ルサンチマン”
「自粛警察」は、自粛という正義を振りかざし、それを守っていない人を徹底的に攻撃する。もちろん、「緊急事態宣言が出され、自粛が要請されているのに、それを守らない人のせいで感染が拡大したら、みんな迷惑する」という口実があるのだろう。だが、やり過ぎとしか思えない「自粛警察」もないわけではない。そういう「自粛警察」を見ると、正義の起源は“ルサンチマン”にあるというドイツの哲学者、ニーチェの言葉を思い出す(『道徳の系譜学』)。
“ルサンチマン”は、恨みという意味のフランス語である。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、休業を余儀なくされたとか、収入が激減したとかいう人は少なくない。なかには、自身が経営する店や会社が倒産しかけている人、あるいは勤務先の業績悪化でリストラの不安にさいなまれている人もいるはずだ。こういう人が「自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭わなければならないんだ!」と“ルサンチマン”を抱いても、不思議ではない。
この“ルサンチマン”を一体どこにぶつければいいのか。緊急事態宣言を出した政府にも、休業を要請した地方自治体にもぶつけられない。もちろん、そもそもの原因となったウイルスにぶつけるわけにもいかない。そこで、その矛先の向きを変えて、自粛していない店にぶつける。
同時に、他の誰かが得している、あるいは楽しそうにしている「他者の享楽」が許せないという心理も働く。経営者が金を儲けており、利用客も楽しんでいるように見える店は、格好のターゲットになる。
そういう店に仕返ししたいという復讐願望も強い。その店から自分が直接実害をこうむったわけではなくても、政府にも、地方自治体にも、ウイルスにも仕返しできないので、復讐の対象として自粛していない店を選び、鬱憤晴らしをするわけである。
だから、「自粛警察」は、ニーチェの言葉を借りれば「復讐を正義という美名で聖なるものにしようとしているのだ」。いわば「地下に潜った復讐の念で揺れている地面そのもののような者たち」にほかならないが、自粛という正義を振りかざせば、復讐の口実作りはいくらでもできる。
もう1つ見逃せないのは、「自粛警察」が裁判官の快感を味わっている可能性が高いことだ。「われわれだけが善人なのだ。正しき者なのだ、われわれだけが善意の人間なのだ」と主張しながら、きちんと自粛していない店や人などを非難して罰を与えれば、裁判官の快感を味わえる。
「自粛警察」はこの快感を味わっているからこそ、やり過ぎともいえる断罪を繰り返すのだろう。それゆえ、彼らは「裁判官を装った復讐の鬼たち」なのだが、「『正義』という言葉を、毒のある唾液のように絶えず口の中に蓄えている」。だからこそ怖いのである。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2009年